阿部です。

In article <3ef1e7e7$0$259$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>,
 tfukui@asahi-net.email.ne.jp (FUKUI Tsuyoshi) wrote:

> 「自分ばっかり【捕まらない】のは不公平だ」と言う人が存在しない
> (いや、まあ世の中は広いので、稀にはいるのかもしれませんが)
> ということ自体が、この手の問題に「公平さ」を持ち出すおかしさを
> 物語っているような気がします。

どのように物語っているのかがよく分からないです。
もう少し、説明をください。

そもそもこの手の問題に限らず「不公平だ」というときに、
不公平によって利益を得ている人が「自分ばっかり【捕まら
ない】のは不公平だ」と言うことはそれほどないといえるかも
しれないし、逆に不公平によって利益を得ている人で
「そんな不公平、おかしいよ」と思って(思っているだけで、
利益は受けたままかも知れないけど)いる人はいると思うし、
どうして上記引用部のように決めつけられるのかが不思議です。


> On Thu, 19 Jun 2003 23:34:49 +0900, ABE Keisuke <koabe@mcc.sst.ne.jp> wrote:
> >相互的な作用ではないのかなと思っているのです。
> >つまり、遵法精神に問題があるから、自分ばっかりと思う
> >ということもあるかもしれないけれども、逆に、
> >「現実に不公平な運用が行われている」ということが
> >あったとすると、遵法精神に悪影響が与えられるのでは
> >ないかということです。
> 
> 遵法精神に悪影響を与えるのは、単に
> 「こういうことをやっても捕まらないこともある」
> という認識ではないでしょうか。
> つまり、自分は捕まらないだろう、という甘い見通し。
> この時点では、捕まったり捕まらなかったりする人がいるのは不公平だ、
> なんて観点はないでしょう。

観点があろうとなかろうと、「こういうことをやっても
捕まらないこともある」ということが行われているというのは、
不公平が行われているということではないのですか?
「こういうことをやっても捕まらないこともある」ことは
公平な運用が行われているのですか?


> なのに、自分が捕まると「不公平だ」となる。

不公平を不公平と認識したとも言えるのではないかと思います。

「自分が捕まると」と限定しているけど、駐車違反の取り締まり
などでは、自分が捕まらなくても公平にまんべんなく行われて
いると思っていない人って、結構いそうな気がします。

とはいえ、「なのに、自分が捕まると『不公平だ』となる」
ようなのはいやな感じだから、そうは思わせないようには
できないのかな、と思っているのです。でも、できないの
ですよね。

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阿部圭介(ABE Keisuke)
koabe@mcc.sst.ne.jp (NetNews用)