T sato wrote:
> 平賀さんの総括、面白く読みました。 簡潔な説明も気に入りました。
> でも疑問も湧いたので、以下にカキコ。

厳密な記述や詳しい説明を書くと、そうでなくても長いものが
3倍ぐらいになりそう、ということで、途中でビビってだいぶ
はしょってしまったということはあります。
 # 「これでも?」、「そう、これでも」。

>>それに決着をつけたのがコーシーによる「級数の和(収束)」の定義で、
> 
> #「決着」と言うと、「これしかない」とか、「可能な選択は…に限る」と言った
>    感じがあるのですが、「少なくとも、こう定義すれば、paradoxを避け、
>    有限和の拡張になる」 と言った意味にも取れます。
>    「多分後者」として解釈しましたが、そう言うことなのだろうか?

もちろん前者ではありません。
ただ、後者だと言い方として弱いでしょう。
「paradox を避け(るため)」というと消極的な印象を受けますが、
もっと積極的な話として、例えば結合律や交換律を天秤にかけ、
そちらを捨ててもやむを得ないという強い主張を伴ってもいます。
そして(複素)関数論、フーリエ級数論など、巨大な財産がその上に築かれてもいます。

M_SHIRAISHI チャンに決定的に欠けているのはそういった視点で、
本の始めの数ページしか読めない(その理解すらおぼつかない)のでは
仕方ないでしょうが、有機的につながった全体を見渡した上でなければ、
級数の定義がどうのこうの言っても始まらない。

>>ただし「数列」とは言っても、変数や不定元を持つような場合も含みます。
>>「昔の定義」もなにも、級数という言葉(というより概念)は昔から今まで
>>ずっとこのままです。これはニュートンもオイラーも同じ。」
> 
> # と言うことだと、 例えば多項式の級数なども考えて良い訳ですが、
>     部分和の列の極限の定義って、いろいろ考えられそうなので、沢山の
>     疑問が浮かびます。

これはあくまで、「級数そのもの」、「形」の話として述べたもので、
「意味」のほうには全然立ち入っていません。
例えば関数列についての「点収束」、「一様収束」といったことさえ触れていません。
 # コーシーはそこで躓いたりするんですが。
 # もっとも一様収束の概念はそんなに難しくも意外な話でもないので、
 # なぜコーシーが思い至らなかったのかはむしろ不思議。
 # これも「コロンブスの卵」でしょうか?

ですから言わずもがなではありましたが、「変数」云々をあえて言ったのは、
ニュートンにあって実際に扱っているのは「ベキ級数」が中心だったこと、
したがって「昔の定義」を言うにも、それを一応視野に入れておこう、
というのが理由の1つ。
もう1つは、Knopp のような言い方だとかえって窮屈である、
例えば数列を母関数展開で表すような場合には「和」という意味は全然考えず、
完全に形式的に係数の列だけに着目している、といった意図がありました。

# 以下、順番を変えます。

>>なおコーシーは上記の「形式和」の書き方を拒否し、収束する場合にだけ
>>使いましたが、コーシーの目的が:
>>  1 - 1 + 1 - 1 + 1 - 1 + ...
>>みたいな収束しないケースを排除することにあったことを考えれば
>>当然理解できる態度です。
>
> #「Cauchyはそう考えた」みたいな話では有りますが、話の流れからは、
>    「考察対象を定義し、彼流の仕方で対象を 収束/非収束に分け、
>    前者に"和"を定義した」と読めます。
>    そこで、非収束ケースを考察対象から外してしまうと、話が循環的に
>    なると思われ、 これより「排除されたケース」も考察対象としては
>    in scope としたのだ、と解釈しましたが、具体的にどうしたのかは疑問。

ここはちょっと誤解があるようです。
これはあくまで「書き方=記法」だけの話です。

前にも書きましたが、コーシーは、少なくとも 1820 年代の著作では、
級数そのものについて「級数 u_0, u_1, ...」という書き方をし、
無限和記法:「u_0 + u_1 + ...」は収束する場合だけに、
「和」を表す便法ないし略記法 (convention) として認めました。
 # こういうことは原典を見ないとわからないですね。

推察ですが、おそらくコーシーにとっては、収束するかどうかさえわからない
対象に対して「u_0 + u_1 + ...」といった書き方をすることは、
「1/0」といった書き方と同様に許しがたかったんじゃないでしょうか。
そしてそう考えればカンマ記法への固執も理解できます。

ですから、考察対象から排除するといった話では全然ありません。
「記法から排除する」だけです。

========

これ以下の部分はおっしゃっていることが私にはよくわかりませんので、
もう少し詳しく説明していただけますか?

> ・例えば、多項式級数の部分和としての「多項式の列」の極限って、任意の
>   ベキの係数が収束すれば、これによる 形式ベキ級数 として良い?
>   多項式を多項式に写す変数変換に対して、上記の定義は不変と言える?
> 
> ・例えば、多項式級数も、もう少し柔軟に 1-x+x^2−x^3+…=1/(1+x)
>   の様に扱いたい要求もあるでしょう。 級数に関する説明からは、部分和に
>   よる函数列の極限を考えることに成りそうですが、収束の定義として、
>    「定義による」 では思考停止だから、どの様な位相が一般的で有用か、
>   知りたくなるのは自然でしょう。
  ...
> ・例えば級数、 Σa(j)  ;( j=0..∞)  の定義をベキ級数経由で定義しても、
>   そこそこ合理的な結果が得られる様にも思えます。
>   A(x)=Σa(j)*x^j   にて A(x) が |x|>0 について収束してある条件下で
>    x=1 に一価に 解析接続出来るような a(j) の属を考えても良さそう
>   ではないですか。  勿論、そこでの "和"の定義は  Σa(j)≡A(1) です。
>    そうした立場でみて  1−1+1−1+…=0.5 でなぜ悪い?
>    Cauchy流は何処が良い?

これは要するに、ベキ級数をその収束半径を超える場合についても
意味づけする、といったことでしょうか?
そういった考察はオイラーなんかにもありますね。
 # 前に桂さんの「ちゃちゃ」もあったし。

> #級数の定義については、既に確立済みと言った話にも取れるのですが、
>    まあ、部分和数列でも良いです。 たぶん基本は数なのでしょうから
>    複素数列に限定しましょうか。 級数和の定義にはどの様な多様性が
>   考えられるのでしょう?

さあ?
数列の場合であれば、通常の収束の他に「平均収束」なんてのがありますね。
# 「チェザレ和」、だっけ?
数列 a_1, ..., a_n の n 項までの平均値:
  (a_1 + ... + a_n)/n
が収束する場合に「平均収束する」と言います。
収束列は(同じ極限値に)平均収束しますが、逆は成り立たない。

>   上記で、ベキ級数経由の定義を考えましたが、それも one of them であって、
>   種々の仕方が考えられるでしょうから、それら全体をclassifyする様な議論が
>   あっても良さそうに思えます。

一挙に位相論まで行ってしまうといろいろな位相・収束が論じられてますが。

>   まずは部分和の数列 を数に写し、Cauchyの意味で収束する数列に対して
>    その収束値を与える様な線形写像とその定義域を考察対象にすべきに思え
>    ますが、 出発点を Cauchyの意味に限定せず、例えば絶対収束級数に採ったり、
>    もっと用心深く、有限個の項の相異の無視、 (1,1,1,…)→1,数列indexの平行
>    移動に対する不変性、等の"極限"に相応しい性質を並べ立てた処から始める
>    べきかも知れません。

うーん。わからない。

>    可能な定義全体の中で、Cauchy流の定義がどの様な位置を占めるのかが
>    不明な点が、どうも欲求不満として残る気がします。

>     こんなことを考えたのも、このNGを読んだからですが、考えるに、タイトルに
>    「Cauchy に とって、何であったか?」なる形容を付した人は慧眼である
>    様に思えます。

まあ自覚して書いてるんであればね。

(平賀)