通りすがりのアホウのresponseで申し訳ないですが、…
平賀さんの総括、面白く読みました。 簡潔な説明も気に入りました。
でも疑問も湧いたので、以下にカキコ。
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"Yuzuru Hiraga" <hiraga@slis.tsukuba.ac.jp> wrote in message
news:41C32742.2020601@slis.tsukuba.ac.jp...
>
> 級数の定義について、少しまとめておきます。
> ======
…
> 与えなければならない。もちろん意図としては、有限個の項の和を
> 無限個の場合にも拡張したいわけですが、素朴に考えてしまうと
> (より限定すれば、有限個の場合に成り立つ性質がすべて成り立つ
> と思ってしまうと)様々な「パラドックス」が生じてきます。
> それに決着をつけたのがコーシーによる「級数の和(収束)」の定義で、

#「決着」と言うと、「これしかない」とか、「可能な選択は…に限る」と言った
   感じがあるのですが、「少なくとも、こう定義すれば、paradoxを避け、
   有限和の拡張になる」 と言った意味にも取れます。
   「多分後者」として解釈しましたが、そう言うことなのだろうか?
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> ただし「数列」とは言っても、変数や不定元を持つような場合も含みます。
> 「昔の定義」もなにも、級数という言葉(というより概念)は昔から今まで
> ずっとこのままです。これはニュートンもオイラーも同じ。」

# と言うことだと、 例えば多項式の級数なども考えて良い訳ですが、
    部分和の列の極限の定義って、いろいろ考えられそうなので、沢山の
    疑問が浮かびます。

・例えば、多項式級数の部分和としての「多項式の列」の極限って、任意の
  ベキの係数が収束すれば、これによる 形式ベキ級数 として良い?
  多項式を多項式に写す変数変換に対して、上記の定義は不変と言える?

・例えば、多項式級数も、もう少し柔軟に 1-x+x^2−x^3+…=1/(1+x)
  の様に扱いたい要求もあるでしょう。 級数に関する説明からは、部分和に
  よる函数列の極限を考えることに成りそうですが、収束の定義として、
   「定義による」 では思考停止だから、どの様な位相が一般的で有用か、
  知りたくなるのは自然でしょう。
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> なおコーシーは上記の「形式和」の書き方を拒否し、収束する場合にだけ
> 使いましたが、コーシーの目的が:
>   1 - 1 + 1 - 1 + 1 - 1 + ...
> みたいな収束しないケースを排除することにあったことを考えれば
> 当然理解できる態度です。

#「Cauchyはそう考えた」みたいな話では有りますが、話の流れからは、
   「考察対象を定義し、彼流の仕方で対象を 収束/非収束に分け、
   前者に"和"を定義した」と読めます。
   そこで、非収束ケースを考察対象から外してしまうと、話が循環的に
   なると思われ、 これより「排除されたケース」も考察対象としては
   in scope としたのだ、と解釈しましたが、具体的にどうしたのかは疑問。

・例えば級数、 Σa(j)  ;( j=0..∞)  の定義をベキ級数経由で定義しても、
  そこそこ合理的な結果が得られる様にも思えます。
  A(x)=Σa(j)*x^j   にて A(x) が |x|>0 について収束してある条件下で
   x=1 に一価に 解析接続出来るような a(j) の属を考えても良さそう
  ではないですか。  勿論、そこでの "和"の定義は  Σa(j)≡A(1) です。
   そうした立場でみて  1−1+1−1+…=0.5 でなぜ悪い?
   Cauchy流は何処が良い?
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> で、現在流と Knopp 流で何か実質的な違いがあるかと言えば、全くありません。
> これは当然の話で、部分和数列を別途に与えるか、級数(そのもの)の定義の
> 中に組み込むかだけの違いだからです。
> それに「級数=部分和数列」と言ってみたところで、ユークリッドの
> 「点とは部分を持たないものである」みたいな定義と同じで、
> それ自身が実質的に何かの役割を果たすわけではない。

#級数の定義については、既に確立済みと言った話にも取れるのですが、
   まあ、部分和数列でも良いです。 たぶん基本は数なのでしょうから
   複素数列に限定しましょうか。 級数和の定義にはどの様な多様性が
  考えられるのでしょう?
  上記で、ベキ級数経由の定義を考えましたが、それも one of them であって、
   種々の仕方が考えられるでしょうから、それら全体をclassifyする様な議論が
   あっても良さそうに思えます。

   まずは部分和の数列 を数に写し、Cauchyの意味で収束する数列に対して
   その収束値を与える様な線形写像とその定義域を考察対象にすべきに思え
   ますが、 出発点を Cauchyの意味に限定せず、例えば絶対収束級数に採ったり、
   もっと用心深く、有限個の項の相異の無視、 (1,1,1,…)→1,数列indexの平行
   移動に対する不変性、等の"極限"に相応しい性質を並べ立てた処から始める
   べきかも知れません。

   可能な定義全体の中で、Cauchy流の定義がどの様な位置を占めるのかが
   不明な点が、どうも欲求不満として残る気がします。

    こんなことを考えたのも、このNGを読んだからですが、考えるに、タイトルに
   「Cauchy に とって、何であったか?」なる形容を付した人は慧眼である
   様に思えます。
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