! "<3fe81f9e$0$19837$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
!     Tue, 23 Dec 2003 19:58:40 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:

> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bs1cs2$61r$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> ! "<3fcfc961$0$19849$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
>> !     Fri, 05 Dec 2003 08:56:03 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:
>> 
>>> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bq9rlh$kq0$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>>> 火事が起こってる状態では、その家の財産価値が刻々と減っているわけですか
>>>> ら、それを消火することの目的は「財産価値の減少を食い止める」ということ
>>>> です。
>> 
>>> それは「結果」に過ぎないですね。
>> 
>> そのような結果を生むことを目標にした行動でしょ?

> いいえ。

> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bndosc$u4d$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
> $(1) 意味もなく放火し、意味もなく消火した
> $(2) 放火の手段があったから放火し、消火の手段があったから消火した
> $(3) 火を見るのが好きで放火し、火が消えるのが好きで消火した
> $(4) 家の持ち主に害意があって放火し、恐くなって消火した
> $(5) 消火する目的で放火し、自己満足のために消火した

> 上記1〜5は全て「消火」ですが何れからも「財産価値の減少を食い止める」
> といった目的を汲み取ることは不可能です。「財産価値の減少を食い止める」
> は*結果的*に副次的効果の産物として生じただけですね。

もちろん、動機から目的を汲み取ることが可能とは限りません。
# まあ、4番目は「財産価値の減少を食い止める」のが動機の一部と言ってい
# けど。

普通、目的を汲み取るのは、行為それ自体からです。

火災現場で火に水をかけてれば、それは「消火」を目的にしてると判断される
のは、「火に水をかければ火が消えることが促進される」ということを大抵の
人は知っているだろうと予測されるからです。

火災の火を消火すれば「財産価値の減少を食い止める」ことを目的にしてると
判断されるのは、「火災の火を消火すれば財産価値の減少を食い止められる」
ということを大抵の人は知っているだろうと予測されるからです。

>>> それは単に「全体から切り出された一部の状況」のみからではそれ以外の目的
>>> (というよりここでは動機だな)を見出せないというだけの話でしょう。
>> 
>> 動機なんてものは関係ありません。

> なんだそりゃ。^_^;
> じゃあ、KGK氏言うところの「目的」及び「動機」を定義した上で違いを明確
> にし、無関係であることを証明してみてくださいな。

行為の目的というのは、その行為を行なうことで得られるはずの「想定された
結果」のことです。

行為の動機というのは、その行為を行なうと決意するに到った理由です。
それは、そのような目的を持った理由と、そのような目的の行為を実際に行な
うと決断した契機からなります。

行為の評価は、その行為が行なわれる前と行なわれた後の状況の評価の差です。
事前に目標とした差が目的の価値であり、実際に起った差が結果の価値です。
行為の手段とは、行為の目的をいくつかの小目的に分割したときにそれぞれの
小目的を達成するための行為群のことですから、イテラティブに評価できます。

これらの評価に行為の動機は関わってきません。それは、行為が始まる時点で、
既に終わったものだからです。
さらに、どのような動機があったにしても実際に行なった行為が同じであれば、
行為の評価としては同じ評価を与えられるのが当たり前ですから、そういう意
味でも動機が行為の評価に関わってこないのは正解です。
# 金に困って盗もうが、趣味で盗もうが、盗みは盗み。

> 実際に「消防署員が放火魔だった」ってな事件もありましたがね。^_^;
> 私には「放火は許せないが消火したのは偉い。よくぞ財産価値の減少を喰い止
> めてくれた」なんて評価は聞こえてきませんでしたよ。

普通は、わざわざ評価する必要はないでしょうから、聞こえてこないのは当然
でしょうね。
「放火」の悪さと「消火」の良さを比べれば、前者の方がはるかに大きいです
から、前者にのみ注目して評価する人が多くても驚くにはあたらないでしょう。
でも、「放火も許せないが消火も許せない」という人は、きっと、殆どいない
でしょうね。

> KGK氏ならそのように
> 評価するんですか?

「偉い」ってのは人に対する評価になりかねないから、そういう表現はあまり
しないでしょうね。
「消火したのは、しないよりはまし」ぐらいのことは言うでしょうけど。

で、

>>> 「消火した本人が放火していた」という
>>> 情報を一つ加えただけで別の何かが見えてくるはず、少なくとも見える可能性
>>> はあるはずですよね、
>> 
>> その見えてきたものは具体的に何で、「消火」という行為の評価にどのように
>> かかわってくるんでしょう?

には答えてくれないんでしょうか?
まあ、漠然と考えてるだけで、具体的に何を評価してるのか自分でも気がつい
てないんだったら、答えようがないでしょうけど。

>>>> 放火犯に善意があるかどうかなんて、私は問題にしてません。
>> 
>>> 大抵の犯罪では*犯行を行う意図*の有無を軽んじることはありません。
>> 
>> 犯行に故意があるかどうかというのは善意とか悪意とかいった話とは関係あり
>> ません。

> 「犯行」じゃなくて「故意→意図」の方に「善意とか悪意とか」があるのよ。

普通は、善意とか悪意とかで判断するのではなく、その意図に基づく行為が法
に抵触するかどうかで判断されます。
# 法的な評価以外の評価を行なうなら、「その意図に基づく行為」の社会的評
# 価。

>> 故意があるかどうかってのは「どのような結果が起こると想定した行動だった
>> か」というので判断されます。

> だからその「想定」が善い想定か悪い想定かってことじゃん。

それは、誰にとって「善い/悪い」でしょうか?
普通の言葉遣いでは、「善意/悪意」というのは対象物に対する好意もしくは
その反対のものがあるかどうかで決まります。
どうも、wacky氏のいうところの「善意/悪意」ってのは、それとは違った意味
で使ってるような気がするんですが、どんな意味で使ってるんでしょうか?

>>>> ・強姦 + not 殺人
>>>> という行為を評価するのなら、その行為の前後の状況の差を考えるべきです。
>>>> もちろん「悪いこと」という評価になります。

>>>> これを、
>>>> ・強姦 + 殺人
>>>> と比べるというのなら、その場合の行為の差は「殺人」の有無ですから、「殺
>>>> 人」(もしくは「not 殺人」)の評価になっています。

>> wacky氏が比べる対象を間違えたってだけの話ですね。

> 強弁にも無理がありますよ。^_^;
> もう一度ご自分の主張を振り返って御覧なさい。「強姦 + not 殺人」につい
> ては行為そのものに対する(絶対的な)評価をし、「強姦 + 殺人」については
> 「強姦 + not 殺人」との比較→相対的な評価を行っているわけです。

違います。
前者は私の主張に従った「強姦 + not 殺人」の評価。
後者はwacky氏が持ち出した比べ方に従った「強姦 + not 殺人」の評価。
そのwacky氏の比べ方が何を評価してるかといえば、「殺人」の評価にしかなっ
ていないってのが私の主張。
# 正確に言えば、「殺人の評価」の not。

> 誰が見
> てもオカシナ主張ですよ。

私の主張は、もともと、「ある行為の評価は、その行為をした場合としない場
合で比べることで行なう」というものですから、wacky氏のような比べ方をし
たところで何の反論にもなっていません。

> <余談>

>>> それは単に「消火」の前後の状況の変化を見ているに過ぎないわけで、常に
>>> 「既に生じた結果をもたらすことが目的である」と考えるのならば「目的」と
>>> 「結果」を別ける意味はありませんし、その仮定は明らかに誤りです。
>> 
>> 今だに、「事前に想定された結果」と「実際の結果」の区別がついてないよう
>> ですね。

> 「悪意から行い成功した」場合は「事前に想定された結果」と「既に生じた結
> 果」は一致する。「善意から行い失敗した」場合は「事前に想定された結果」
> と「既に生じた結果」は一致しない。現在扱っているのは前者だから敢えてそ
> こにこだわる意味はありません。

必ず一致するのであれば、目的と結果を区別する意味はありません。

>>> つまり、「善意で
>>> 行ったが失敗した」のか「悪意で行い成功した」のかは全く同じ結果であって
>>> も異なる評価を受けるわけです。
>> 
>> 純粋に相手のためを思って殺してあげても、殺人は殺人です。

> 尊厳死とかを指しているのであれば、それは単に「まだ法律が追いついていな
> い」だけの話だと思うよ。

尊厳死に限った話じゃありません。
「純粋に相手のためを思って」というのは行為者の主観にすぎないので、客観
的に見て相手のためになってるかどうかは別問題です。
でも、「純粋に相手のためを思って」と認められるなら、それは「善意から」
と見倣されるのが普通でしょう。

また、例えば、被誘拐者への善意から被誘拐者を助けても、誘拐犯への悪意か
ら同じことをしても、行為の評価としては同じなのが普通ですね。
そうでなければ、同じ状況で同じ行為をしてるのに、行為の評価が異ることに
なります。
# ま、wacky氏が「善意/悪意」をどう使ってるのか分かるまで、この辺の話は
# 結着つかないでしょうけど。

>> 善意の有無で行為の評価が反転することはありません。
>> せいぜい、情状酌量のネタになる程度の話です。

> 現状ではね。例外を持ち出すことに意味はありません。

意味が取れません。
「現状」が例外だと言ってるんでしょうか?

>>>> いいえ。
>>>> wacky氏による行為の評価は、人の評価を含むものになってるんじゃないかっ
>>>> て指摘です。
>> 
>>> 「人」とか「者」を付けたから?ですか?
>> 
>> 「人」とか「者」とかをよくつける上に、それをつけないと論旨が変わりそう
>> な主張をするからです。

> そういった主張を何ら具体的な指摘を伴わずに行うところがね…。^_^;

# ひとつの例は他の記事で行なったから、それはそれでいいとして、

>> 「人」とか「者」とかをつけずに表現したら、自分の論旨が変わって見えない
>> かどうかをよく吟味してみてください。

というのを実行する気がなければ、無駄な指摘になるでしょうね。

> </余談>
-- 
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK