ABE Keisuke wrote:
> 阿部@佐倉です。

> とはいえ、「惚れてしまうかどうかはその後である。(笑い)」
> とかの部分には同意しませんし、「この「フォロー」はどういう
> 意味だったのかと言う事」の部分とかは何が言いたいのかが
> よく分からないのですが。

お答えいたします。わたくしはこう言いました。

>                    すなわち、「表現の自由」や「民
> 主主義」の命名は法学が為したのかどうかは知らないが、命名の対象である
>「事柄」や「事実」に関しては法学こそが他の学問分野同様、最初は傍聴者に
> 過ぎない。惚れてしまうかどうかはその後である。(笑い)

この趣旨は、わたくしの説明にもあった通り、

   社会で語られ、人々の中に認められる欲求なり考え方なり

がまず存在する。しかし、どの(学問)分野でもそうだが、直ちにその語られて
いるようなことを語られているままに受け入れるようなことはしないでしょう。
まず社会で起こっている事実や人々の欲求等を思慮深く眺めるでしょう。このよ
うな姿勢をとることをわたくしは「傍聴者」と言っているのです。

次に、傍聴、傍観してきた結果、その事実や事柄の内容がさらに明らかになっ
て、法学においても、これこれしかじかの価値実現の「必要性」を感ずるように
なる。(わたくしは、法学を動かすのはこの「必要性」だと思っている)そし
て、この段階での法学は、他の分野からの圧力や不作為的態度への批判があるわ
けでもないのに、自ら進んで、また、仮に法学的に問題にする事が一見難しいよ
うな場合でさえ、その困難をも振り払い自らの学問がどうしても携わるべき事柄
だと意識し始める。果たして成功するかどうかも分からないのに。わたくしはこ
のことを、

       「惚れてしまう」

と喩えているのです。決して変な意味で言っているわけではなく、あくまでも、

   人でも何でも関心を持つにはその関心の対象が存在する
   わけであって、それは法学に言う「表現の自由」にも同
   じく当てはまる、つまり、

    (ア)法学用語で指し示す事柄自
       体は、実は「法学」以前に
       存在する

    (イ)ゆえに、fjでの議論は仮に
       法学的でないとしても十分
       に意義深い

    (ウ)さらに、逆にそれが法学に
       ヒントを与える事に繋がる、

とまで言おうとしたものなのです。100歩譲って、「表現の自由」の命名は法
学の所産だとしても、その命名理由や対象に於ける「必要性」や目的とする「価
値」や人々の(社会の)「欲求」は法学内部のものとは言えまい。

     法学と言えども、事実創造は不可能
> 
> 表現の自由に関しても、法学としての関心における、
> 法学で扱っていくうえで必要な概念の精緻化とかがあるの
> だろうが、それって、「自由でありたいとの欲求」、
> あるいは「なぜ自由が必要で、大切なのか」とかそういった
> 思想が根底にあるものだと思う。

その通りです。だから法学が動き出す。

> アクセス権を法的な権利として認めるとちとうまく
> いきそうもないけど、パブリック・ジャーナリズムへの
> 取り組みを行おうとすることが、法律学を否定している
> わけではないとか、そういう理解でいいですか?
> ちょっと違うかなあ。うーん。

アクセス権についてだってそれでよろしいのです。

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