In article <041019191005.M01221800@ims.kit.ac.jp>, 
chiaki@kit.ac.jp (Tsukamoto Chiaki) wrote:
: free の e-mail address が捨てメルアドであるか否か,
:あるハンドルがステハンであるか否か, こういったことは
:それを用いている投稿者の意識の問題でしょう. 

これはいいんだけど、

:外部から
:それを客観的に判定することには多分意味がない. そして
:それを投稿についての責任と直接関係付けることにはもう
:一段の問題がある.

これは、良く分からない。とりあえず、『判定できるかどうかは
おいて』一度きりのステハンで投稿する場合、投稿の責任をとる
というのは、どういう意味なのでしょうか?以下、下の方でも、

:私は anonymous remailer を用いての投稿でも, 本人に,
:その言論についての責任を取る覚悟があるなら構わないと
:思っています. 

というのは、その『責任』の定義によるのじゃないのでしょうか?
本人が原理的に特定できない(電子メールアドレスでも、その他
の識別子でも)ことを目的としたものは、あきらかに、
『free の e-mail address』等とは性格の違うものだと思います。
そんなに身を隠したければ、代理投稿してもらえば良いことなん
じゃないのでしょうか?と私は思うのですが。

:ここでの「責任」というのは, fjの参加者
:がその本人を確認できるということで証明されるものでは
:ないでしょう.

ではなくて、それが『責任』の前提であるということを主張して
おります。ですので、

:# 実は逆に, その本人を確認できるからといって, それで
:# 言論についての責任を取っているとは必ずしも言えない.

は当然。しかし、

:# 言論についての責任を取っていないことに対する代価を,
:# 本人の意向を別にして, 払っているという状態は, 当然
:# ある. それを言論についての責任を取っていると称する
:# のは, 皮肉なのである.

は、それで良い(私は、皮肉ではなくて、マジに受け取って
おります)。

:如何なる形での投稿でもそれについての全責任は投稿者に
:あると我々は考える, と宣言すれば良いのであって, こう
:いう形式では不十分だ, とか細々とこねるのは, その精神
:を損なう *恐れ* があります.

その『投稿者』が同一であるのかどうかを原理的に排除している
場合は、どっちむきに『イー』すればよいのでしょうか?

:記名投稿が望ましいとすることには, 伝統を重んずる立場
:から, 賛成します.

これは、OKですね。

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松田@NY