佐々木将人@函館 です。

>From:Sin'ya <ksinya@quartz.ocn.ne.jp>
>Date:2004/07/08 22:56:51 JST
>Message-ID:<ccjjr4$tqt$1@news-est.ocn.ad.jp>
>
>  わたしに関していえば、「定義の問題に持ち込」んだわけではなく、定義に
>よっては誤りでない可能性がある、ということを述べたかっただけです。別記
>事でも述べましたが、「間違い。」と一行だけ書かれたことが、あまりに一方
>的だと思いましたので。

仮に一方的だとするならば
たくさんの種類があって一様に論ずべきではない主張について
十把一からげにしてしまう主張も
「一方的」ではないんでしょうか?

「一方的」な主張を「一方的」に切っても
あまり弊害はないように思いますが。

>  佐々木さんがあげられたことと同じことを考えていたわけではありませんが、
>「ストライクかボールかの判断が審判の裁量によってしまう」については、
>「それは『裁判官の裁量によってしまう。』場合とは違うでしょう。」という
>反応が返ってくるかもしれないとは思っていました。
>  違和感がある例だなと。

私は違和「感」という感覚のレベルにとどまらず
ある程度整理して説明できますよ。

「ストライクかボールかの判断が審判の裁量によってしまう」
について私はいくつかの選択肢を用意して説明しましたが
それにそって説明すると

「そもそも判断基準がない
 もしくは審判の判断によるとだけされている」
というパターンであれば
まず決めるべきは「判断基準を設けるべきではないか」という話ですね。
これとパラレルになる法律の世界の話は
「ある行為の適否について
 行為者の自由な裁量に委ねられている」
という場合な訳です。
そうするとそれへの対策として
「裁量を狭めるよう規則を詳細に定める」かどうかを考えるという。

「判断基準はあるけど審判がそれを守らない」
というパターンであれば
「審判が判断基準を守るようにするにはどうしたらいいか」であって
けっして判断基準を新たに作るって話ではない。
(判断基準を変更しようって選択肢はあるにせよ。)
これとパラレルになる法律の世界の話はたとえば
「裁判官が判断の基準となる法令に反した場合」
であって
これに対しては「上訴」「裁判官の複数制」という対策がある。
(上訴理由には「法令違背」があるし
 高裁以上では複数裁判官で審理することになっているのは
 複数だと余計違反しにくいだろうってことだし
 審級制だってその意味はあります。
 さらに「再審」って制度まである。)
あとでものべるけど裁判員制度だってこういう要素もあります。

野球のストライク・ボールの判定ではちょっと考えにくいけど
「判断基準が抽象的で具体例へのあてはめで解釈を要する」
というパターンもあります。
再三述べている「テレビゲームの著作権」はこれでして
法律の場合この作業をなくすることはできる訳がないというのも
これまた再三述べたとおり。

さらに基準は決まっていても
個々の具体的例において事実の認識を間違える場合
客観的に言えばストライクゾーンを外れているんだけど
ストライクゾーン内に見えてしまったため
ストライクと言ってしまう類の問題。
裁判だと事実認定の誤りってやつですね。
これに対しては陪審制の国のように
事実認定は裁判官にはやらせないというシステムを持つ国もあるし
日本をはじめたいていの国が採用する
そこは裁判官の判断に委ねよう(証拠についての自由心証主義)
というシステムもあります。
野球なら機械を導入するって手があるし
実際いくつかのスポーツでは
ビデオとか写真を見て判断するってことがあるでしょう?

以上のような次第でして
裁判に限定したところで
裁判官の判断に委ねられていることや
裁判官の判断がきわめて限定的であったり
裁判官の判断が許されないことすらある訳です。

これをたまたま「結論が読めない場合がある」ということだけをもって
「裁判官裁量主義」などと言ったところで
とても正確な議論にならないことは
別に法律学やってなくたってわかるとおもいます。

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ルフィミア「本当に本が出そうなんですか?」
まさと「なんか出そうな感じだよ。」