"太宰 真" <popcorn05@bridge.ocn.ne.jp> wrote in message
news:dcmm06$4b6$1@news-wst.ocn.ad.jp...
>
> "himtkitk" <himtkitk@insat.rnu.tn> wrote in message
> news:42ec3788$0$25197$44c9b20d@news3.asahi-net.or.jp...
> > yam wrote:
> >> "Shinji KONO" <kono@ie.u-ryukyu.ac.jp> wrote in message
> >> news:3992220news.pl@rananim.ie.u-ryukyu.ac.jp...
> > 面白いのは海外で逢う韓国人だね、女性はずいぶん変わって
> > 来てるが、男性は結構いまだに国家を背負ってるのが多い、、、
> > 随分かったるいだろうなとしか思えんが、、
>
> 日本国民であれば日本国を背負うとする気概を持つのは当然です。
> 中国人が中国を背負うとし、朝鮮人は朝鮮を背負うとするのと同じ。
> この当たり前のことを、さも何か深淵な考えをしているかのような「素
> 振り」の下に国民主権国家への忠誠を軽視したり、国家に対して斜
> に構える思想の方がアップ・トゥー・デートだみたいに思ったりする輩
> が年々増えているようなのはまことに遺憾である。
>
> Shikashiくんまでをも汚染するほどのこの「斜視」とは一体どのような
> 病気なのであろうか?一説によると、
>
>            馬鹿な国民の強がり
>
> だ、そうな。そして、この「強がり」は国民の「馬鹿度」とストレートに
> 結びついていて、しかも、(ここが重要なのだが)この「馬鹿度」は日
> 本国の天皇制といっそう深く結びついていると言う。今しばらくはこの
> 説に立って考えを進めてみよう。


此処から下で通常の日本人が想定する國家と意味合ひが大きく
異なる事が讀めば判る。
其れは、西歐の社會契約説に基く國家概念を持ち出してゐる處にある。

>
> すなわち、社会契約説による国家概念ははヨーロッパから伝わった
> 考え方であるが、ここでは人民はそれぞれこれが無くては納得のいく
> 生活は到底望めないから一種の合同行為による契約を結び、自分た
> ちにとっての「必須」の装置として、「国家」を創出した。ここでは誰が
> 必要に思えとか言うのでも無く、国民自らが必要であるとするところ
> から考えられたものである。
>
>        国家は国民が必要とするから存在している
>
> ところが、日本では暫く、特に一般の庶民にとっては国家の存在を意
> 識することなく生活してきた。というよりも、天皇の存在で国家の存在
> の意識を満たしてきたと言えよう。天皇がどうするかが全てであった。
> 天皇がどうしてはいけないとするかが全てであった。ここにおいては
> 国家の存在は不要である。
>
> ところが戦後日本は天皇の国ではなくなった。本来の天皇が存在しな
> くなった以上、日本国は存在しつつも「国家」は存在しない。「国家」を
> 言い換えた存在が無くなってしまったからである。それでも「国家」を云
> 々するなんていうのはほんのわずかの知識人だけであって大多数の
> 庶民的国民にはその存在の意味するものさえわかってはいない。単
> に「恵んでくれるもの」「水戸黄門のようなもの」、あるいは逆に、「税金
> だけかっさらってゆくもの」、この程度であろう。要するに、自分にとっ
> て都合がいいからとか悪いからとか、そういうこととは全く無関係に、
> 先に挙げた、「国家」の存在は自己と密接に繋がっているものであると
> 言う意識をもてないままに今日に至っているのである。したがって、
>
>      「公共」とは「個」の延長であって質的には同じ、
>
> とする意識などには程遠いものがあるのはいうまでも無い。明治政府
> の誕生は日本に於ける近代国家への夜明けだとか言われるが、その
> 移行過程で、今の庶民的国民はその「近代国家」をほとんど意識する
> ことなくいつの間にか近代国家が出来上がってしまっていた、と言うの
> が実際であろう。明治政府は最も大雑把に言えば、支配者同士の争い
> によって誕生したに過ぎない。この庶民的国民不在の革命は国民に
> 今尚、
>
>           「国家」は国民の必要から生まれたものである
>
> 事を知らせてはくれない。
>
> 以上、近代以降の二度しかない革命期においても日本国民は「日本
> 国」はなんとなく意識できても「国家」と言うものを知らない糞餓鬼のま
> まであった。それが現在も続いている。一丁前の大人の振りをして。
> その代表のひとりがShikashi氏であろう。最後に、

太宰氏は、西歐の社會契約説に基く國家概念を持ち出して、長文を
聯ねて懇々と説いてきたのだが、要は其の國家概念が我が國に
ないと言ふのだ。
茲に冒頭の、

> 日本国民であれば日本国を背負うとする気概を持つのは当然です。
> 中国人が中国を背負うとし、朝鮮人は朝鮮を背負うとするのと同じ。

を思ふ時、果して支那や朝鮮の國家概念が西歐の社會契約説に基く
國家概念に相當するのか、と云ふ事である。勿論、否である事は自明
だが、一方で西歐の社會契約説とは無縁の支那や朝鮮を持ち出して
我が國が氣概を持つのは當然とし、他方で我が國は西歐の社會契約説
に基く國家概念が根附いてゐない、と云ふのである。
今囘の太宰氏は大きなミスを犯したと謂へよう。

>
>      日本国家を意識しそれを背負いたくないのであれば、
>      日本国民であることをやめればよい、やめるのは簡
>      単、国籍を離脱すればよいのだから(w)

國家意識の希薄な輩には國籍意識さへ希薄なのではないか。
日本國籍を有してゐると云ふ意識の希薄な輩は、離脱する意識さへ
希薄なのではないか。



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大和猛夫