! "<3feaf62a$0$19839$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
!     Thu, 25 Dec 2003 23:38:38 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:

> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bseh1g$uhi$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>> 一般的には「責任」を「義務」の意味で使用することはありますが、議論とし
>>> て区別する以上は
>>> 1.義務は行為にかかる
>>> 2.責任は結果にかかる
>>> と考えるのが普通でしょう。
>> 
>> まあ、とりあえず、そういう意味だとしときましょう。
>> で、そういう意味だとして、
>> ・行為者には、自分の行為で社会的に許容不可なレベルの迷惑をかけない責任
>> がある
>> ってのはいいわけね。

> 「そういう意味」だとするなら「いいわけ」がないでしょうね。
> 上記を受け入れ、「義務」と「責任」を議論として区別する以上は、「行為」
> と「責任」を結び付けている時点で既に誤りであると言えるでしょう。

やはり、普通の言葉遣いじゃないようですね。

とはいえ、長年の疑問がこれでまたひとつ解決したようです。
「責任」という言葉がでてくるたびに、それがどのような文脈ででてきたもの
であっても、wacky氏は「責任を取る」という話に集中し、「責任を持つ」と
か「責任を果す」とかいった話には一顧だにしなかったわけですが、
>>> 2.責任は結果にかかる
と考えてるのだったら、当然の話ですね。
# というわりには、「結果責任」に対して否定的だった気がするなあ。

で、まあ、せっかくヒントをもらったので、自分の言語感覚を省みてみると、
1. 義務は行為にかかる
ってのはまあいいとして、
2. 責任は状態にかかる
と考えると、責任という言葉のもついろいろなニュアンスを説明できそうな気
がします。
「責任を取る」というときには「行為後の状態」である「結果」にかかるし、
「責任を持つ」というときには、「維持すべき状態」にかかったり、「達成す
べき状態」にかかったりする。

「行為者には、自分の行為で社会的に許容不可なレベルの迷惑をかけない責任
がある」というときは、「許容不可なレベルの迷惑をかけていない状態に対し
て責任がある」といったぐらいの意味合いになる。

で、そのような責任を持つのであれば、そういう迷惑が発生しないように注意
する義務が発生し、失敗すれば何らかの形で「責任を取る」という行動をする
義務が発生する。

そういった「責任に付随する義務」を果すことを「責任を果す」という。

責任が「達成すべき状態」にかかるときは、「その状態の達成を目的とした行
為」にかかるとみなしてよく、そのときに義務の範疇と重なる。
その場合、責任は、その目的を達成するのに手段を限定されないのに対して、
義務は、おおむね、具体的な行為が指定されることが多い。

といったぐらいでどうでしょ?
辞書的な意味はおおむね説明できると思いますが。

> wackyの<3fa487aa$0$19845$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>から
> $私ゃ「自分が恥ずかしくないですか?」って言ってんですが…。

>>> 正しい行いをしたことで自らを恥じるのが普通だとでも言うのでしょうか?
>> 
>> 恥を忍んで正しい行いをするってのもよくある話。

> 嫌らしい詭弁だなあ。^_^;

> 一つは「恥」の摩り替え。
> 「恥を忍ぶ」ってのは「自らに恥じる」ってのとは普通相容れないよなぁ。

どっちにしても「自分が恥ずかしい」ことには違いないでしょ?
# 「他人が恥かしい」わけではない。

> #勝敗は兵家も期せず って話でしょ。

これは意味がよく分かんない。

> もう一つは「普通」→「よくある」の摩り替え。

私は最初から、「普通」だなどと主張してません。
ですから、摩り替えてるわけではありません。

私の主張には「よくある」で充分なのに、「普通」を持ち出す方が摩り替えと
いうべきでしょう。

いずれにしても、「自分が恥かしい」というのは、「正しくない行為をした」
ことの充分条件じゃないんだから、「正しくない行為をした」と主張したいん
だったら「自分が恥かしい」だけでは不充分なわけ。

>>> 見方が一面的に過ぎませんか?
>>> 1.実践することが社会的に正しいことを人に勧めるのは社会的に正しい
>>> 2.自分が実践してもいないことを人に勧めるのは社会的に正しくない
>>> だよね。
>> 
>> 後者は主張の内容に対する批判じゃないよね?

> 主張の適用に対する批判でしょう。

で、「正しい内容の主張をするのに批判的なのは何故?」って話になるわけ。

さらに、
>>> 2.自分が実践してもいないことを人に勧めるのは社会的に正しくない
ってことは、「自分よりまともな人間になるように進めるのは社会的に正しく
ない」だよね?
それって本当?

>>> 「吸殻のポイ捨てを批判することに対する評価」と言うのであれば「批判する
>>> 人(の行為)」、あるいは「批判される人(の行為)」を含めた両者を評価すべき
>>> だと思いますが、KGK氏は「批判される人(の行為)」の評価しかしていないよ
>>> うですね。何故でしょう?
>> 
>> 何故、そこで人を介在させる必要があるんでしょう?

> しつこいなあ。
> 「人が行う」ことが「行為」です。KGK氏お得意の*辞書通りの意味*ですよ。
> 人が介在しない行為など何処にもありません。

「行為に人が介在する」というのと「行為の評価に行為者の評価を介在させる」っ
てのは、全く別の話です。

同じ状況で同じ行為をすれば、行為者が誰でも、「行為の評価としては同じ」
というのが当たり前です。行為者の評価を軽々しく介在させれば、その点が不
明瞭になります。

>> 普通は、
>> : 「吸殻のポイ捨てを批判することに対する評価」と言うのであれば「批判する
>> : の行為」、あるいは「批判される行為」を含めた両者を評価すべき
>> : だと思いますが、KGK氏は「批判される行為」の評価しかしていないよ
>> : うですね。何故でしょう?
>> となるでしょうね。

# 「批判するの行為」ってなんだよ。「批判する行為」だな。

> 何処に違いがあるというのでしょうか?
> #「人」が省略されているだけじゃん。

「省略」ではありません。最初から念頭に入ってない表現ですから。

>> そうすると、「批判されるような行為を批判するのは正しい」という答えにな
>> ります。

> 全く答えになっていません。
> 問いは「KGK氏が「批判される行為」の評価しかしていないのは何故です
> か?」なのですから。

もうちょっとちゃんというと、
・「批判される行為」は、この場合、間違った行為である。
・間違った行為を批判するのは正しい。
ということ。

> そして、「批判されるような行為を批判するのは正しい」のはその通りです
> が、

とするのなら、

> 「自己棚上げの批判」自体が同様に「批判されるような行為」であること
> もまた明らかでしょう。

なんてことをすると矛盾が生じますね。
そこで批判されるべきなのは、「批判」という行為なのでしょうか?

> で、「おまえこそ〜」といった「自己棚上げの批判」
> の応酬が不毛で無意味で有害でさえあることも一般的社会人の常識をもってす
> れば容易に理解可能でしょう。

「自分が間違った行為をしている」というのが「正しい内容の批判をする」こ
とを控える理由にならないように、「相手が間違った行為をしている」ことが
「正しい内容の批判を聞き入れる」ことを拒否する理由にはなりません。

そして、不毛な応酬になったとしたら、間違っているのは「正しい内容の批判
を聞き入れない」ことであって、「正しい内容の批判をする」ことが間違って
るではありません。
-- 
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK