阿部です。

In article <86n0249286.wl@soro1.cc.hokudai.ac.jp>,
 Hiroki Kashiwazaki <reo@cc.hokudai.ac.jp> wrote:

> 「正鵠を失うという表現がある」
> 「ならばその逆は得るに決まってる (論拠なし)」
> 「だから正鵠を得るであっていいはずだ」

当該文書には「正鵠を得る」が行われているという指摘も
ありますが、なぜこういう読みになるのでしょう?

ちなみに「正鵠を得る」は、私の手許にある旺文社、ベネッセ
表現読解、明鏡の各国語辞典が認めている上に、広辞苑は「得る」
をメインにしています。

> 「いつのまにか正鵠が的になったに違いない (論拠なし)」
> 「だから的を得るでもいいはずだ」
> 
> という流れである点です。的と正鵠は異なるものなのに、明治書院の漢文大
> 系なんて持ち出して、正鵠に「まと」とふりがな付ってあるからって、それ
> らが同じであると帰結させてしまうなんて冗談ですか ?

「正鵠」と「的」が交換可能かどうかが焦点ですが、
私はそういう変化はあり得るほうに賛成です。しかし、
こればっかりは実証的な資料がないからお手上げ。

日常「正鵠」はあまり使われないので、より日常的な「的」に
変化することもありそうだと思うのと、実際に的を射る場合、
ただ漠然と的のどこでもよいわけではなく、的の中心を狙うと
いうのは意識下にありそう。とまあ、こういう仮説を立てるのは
許されるのではないかしら。


自然言語は間違いがそのまま定着して日常行われるケースが
あるので、面白いと思います。

その意味で、片方を良貨と称し片方を悪貨と称するのは、
「的を得る」を間違いと決めつけたのと同じでつまらないです。

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阿部圭介(ABE Keisuke)
koabe@ps.sakura.ne.jp (NetNews用)
関心 ・専門分野 :
 新聞学(ジャーナリズム、メディア、コミュニケーション)