At Thu, 14 Aug 2003 23:04:34 +0900,
in the message, <20030814230434cal@nn.iij4u.or.jp>,
cal@nn.iij4u.or.jp (SASAKI Masato) wrote
>「権利者に無断でできない行為をできるように、
> 許諾権者としての立場で当該行為を許可する」
>というつもりがないのに
>許可の外観がある場合はどうなるの?

ふつーに意思表示の瑕疵の規定を適用すれば足ります。
準法律行為として問答無用に効果を発生させる必要はありません。
問答無用に効果を発生させるのでないなら準法律行為とわざわざ考える利点は
ありません。

>意思表示だって線を検討したところで
>結論はたぶん同じところにいくし

それは、
At Wed, 04 Jun 2003 23:11:30 +0900,
in the message, <3eddde16.4698%omegafactor@anet.ne.jp>,
SUZUKI Wataru <omegafactor@anet.ne.jp> wrote
|# ちなみに、意思の表現に関する瑕疵の問題は個別の行為毎に検討すべきだっ
| ていう最近の傾向からすれば、意思表示の瑕疵の規定の適用の有無を理由に
| 意思表示かそうでないかを決めてもあまり意味がない。
| そういう意味で「面倒な割に実益がない」議論。
と述べたとおり。

だけどそれは、準法律行為であっても「意思表示の規定を準用する」からそう
なるのであり、意思表示であれば原則通り意思表示の瑕疵の規定を適用して始
末が付く問題。
だから、

>その上で私は理論的に簡明なのは
>意思表示としない方ではないかと言っているけど
>意思表示ととることになにかメリットあるのん?

意思表示とする方が94条2項類推になるような場合以外、規定の直接適用で片
が付くのだからよほど簡明。
わざわざ準法律行為と考えた上で意思表示の規定を類推する方がよほど煩雑。
だから、そもそも観念の通知とすることの方がなんのメリットもない。

仮に簡明だとしてもだから「意思でない」とするのは本末転倒。
理論的に簡明だからって例えば遺贈は意思表示ではないとするようなもの。
……そもそも、意思表示かどうかというのは、その行為の性質から帰納的に判
断する問題であって、理論的な都合で決めるもんじゃない。

更に言えば、仮に意思表示でないとしても意思の通知ではなくて観念の通知だ
と考える理由もありません。
意思の通知と観念の通知は、単に通知する内容についての性質上の区別でどち
らも準法律行為であることに変りはないので、どちらかであることで理論上効
果が異なるわけではありません。
にもかかわらず意思の通知と観念の通知とで後者の方が簡明になる理論的な理
由は、全くありません。

で、もし仮に意思表示でないとして意思表示の瑕疵の規定の適用を排除するの
であれば、相手が悪意でも外観の存在をもって許諾を有効とするの?
しないでしょ?
じゃあその理由は?って考えれば「ちっとも簡明じゃない」。

>>「許諾」が意思と無関係というのが理解不能です。
>
>そうかい?
>単純に外観を保護しちゃいかんのん?

意思表示だって外観を保護しますけど?
逆に観念の通知だって外観を保護しないことはあるんで(未成年者の債務の
承認とか。)、外観を保護するかどうかという問題と考えること自体が謎。
それは別の話。


それに、「よしんば意思表示でないとしても意思の通知であって観念の通知で
はない」と言っているところで、単純に外観を保護するにしたって、だから
「意思ではなくて観念である」ことには全くなりません。
二者択一じゃないんだから、意思表示でないとしたってだから観念の通知だと
いうことにはなりませんよ。


意思でないなら、承諾をするかしないかの意思決定ができないはず。
意思と関係ないんだから。
その存在が意思によって決るからこそ意思なのであり、承諾するかしないかと
いうのはまさに意思の作用以外何ものでもない。
承諾しようと意思決定しない限り承諾は存在しないんだから。
意思と無関係に既に存在する承諾を通知しているんじゃなくて'自分の意思で
決めた承諾'を表明してんだから。

# 債権譲渡の通知は代理人でも使者でもできるけど、著作権法上の「許諾それ
 自体」は代理人でない使者にはできないはず。
 「本人が」許諾するということの通知は使者でもできるけど。

観念の通知における観念は、通知者の意思とは無関係に存在するもの。
一方、承諾は承諾を行う者の意思によって初めて存在するもので、単なる観念
でないのは明らか。
これが意思でなく観念というのはもはや非常識としか言いようがない
(意思表示でないとしても意思の通知でしかない。
 絶対に観念の通知ではない。)。

催告が意思の通知であって観念の通知でないのは、催告が催告者の意思と無関
係に存在するものではなく催告者自身の意思によって催告することを決めるも
のだから。
「催告」とは「金を請求するという意思」の伝達。

債務の承認が観念の通知なのは、債務は、承認する債務者の意思と無関係に既
に存在するものであり、債務者の意思によって存在するかどうかが決るもので
はないから。
「債務の承認」とは「既に存在する債務が現に存在するという事実」をただ述
べているだけのこと。
間違っても「債務の存在を認める意思」ではない。
これはすなわち、「債務の承認」によって「存在しない債務が存在することに
はならない」あるいは「債務の承認」がないから「存在する債務が存在しない
ことにはならない」ということを意味する。
つまり「債務の存在」は「意思に係らない」。
だから「意思」とは無関係であるということ。

で、これを「許諾」にあてはめれば「利用を認めるという意思」の表明。
「承諾」がなければ「利用はできない」しあればできるということ。

だから、意思表示でないとしても「意思」の通知であって「観念」の通知では
絶対にない
(で、その結果として利用が認められるという効果が生じるから意思表示なん
 だけど、それはここでは無視。)。


というわけで以前の投稿も含めわたしはさんざん「観念でなく意思」というこ
との根拠を論証したけど、佐々木さんの論証は全くないんですな。
意思でないと自分が思うから意思でないという以上の論証は。

-- 
SUZUKI Wataru
mailto:szk_wataru_2003@yahoo.co.jp