安井@東大です。

>>>>>From:Shiro <h9shiro@tky2.3web.ne.jp>
>>>>>Message-ID:<c162pq$2r8f$1@usj.3web.ne.jp>
>>>>>>
>>>>>>質問一
>>>>>> 大日本帝國憲法 第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 
>>>>>>は伊藤博文が作った時点では、“天皇神格化条文”ではなく、欧州の憲法に
>>>>>>在った「君主無答責条文」と考えて良いでしょうか。

>>>> SASAKI Masatoさん in <20040221111221cal@nn.iij4u.or.jp>,
>>>>> むしろ天皇神格化条文と読むべきでしょう。
>>>>> どちらかと聞かれれば。

明治末期から昭和初期にかけて通説であった立憲学派に言わせれば、明治
憲法3条は天皇の法的・政治的無答責を示す条文であり、「神格化」をこ
とさらに規定したものではありません。この点について、立憲学派の代表
的な論者である美濃部達吉は、その著『憲法撮要』において、
 ・君主の「神聖不可侵」を定めるのは君主制国家の通例である、
 ・日本でも、国権の中心たる天皇の地位が不安定だと国家の安寧が損な
  われるので、天皇は「神聖不可侵」とされる、
 ・「神聖不可侵」であるが故に不敬・大逆は処罰の対象とされ、廃位す
  ることも認められない、
 ・「神聖不可侵」であるが故に政治的・法的責任を問われることがない、
というように説明しています。
 # 参照:美濃部達吉『憲法撮要』(有斐閣, 1922年), 236-238頁.


>> SASAKI Masatoさん in <20040226185008cal@nn.iij4u.or.jp>,
>>> また美濃部先生が有力な憲法学者であることを争うつもりはありませんが
>>> 美濃部先生の憲法学説をもって
>>> 当時の通説の線であったと判断するのは
>>> あまりにも単純な理解だと思います。
>>> 私自身例えば天皇機関説については
>>> 「当時の通説からそれほど外れたものではなかった」
>>> 「国家法人説の影響によるもので(憲法の解釈として)批判が大きかった」
>>> という双方の説明を見聞しています。

>From:Shiro <h9shiro@tky2.3web.ne.jp>
>Message-ID:<c2ga18$19ll$1@usj.3web.ne.jp>
>> 「当時」とは具体的には何年のことでしょうか。

明治憲法解釈の有力説は時代と共に変遷していますので、「当時」の範囲
をきちんと区別することが必要だと思います。
明治憲法制定後、東京大学に憲法講座が設立されますが、その初代教授に
就任したのは神権学派の雄たる穂積八束でした。その後作られた京都大学
の憲法講座でも当初は神権学派が教えられていますので、20世紀の初頭頃
までは神権学派の方が有力であったと見るべきでしょう。佐藤功教授も、
穂積を日本の憲法学の「最初の代表者であった」と位置づけ、「彼の学説
は明治憲法の初期におけるいわば公権的な解釈ともなった」としています。
 # 佐藤功『憲法研究入門』上巻(日本評論社, 1964年), 41頁.
しかしその後、後に第一次護憲運動へとつながっていく都市民衆運動の興
隆や立憲化賛美の風潮もあって、天皇機関説の方が次第に多数説となって
いきます。学界での両者の地位は逆転し、穂積自身、その主著とも言うべ
き憲法学のテキストにおいて、
 「もし、多数をもって決すべしとせば、我が学者の通説はいわゆる君主
  機関説なること論なし。予の国体論はこれを唱うる既に三十年、{中
  略}世の風潮と合わず、後進の熱誠をもってこれを継続する者なし。
  今は孤城落日の歎あるなり」
と認めざるを得ないほどでした。
 # 穂積八束『憲法提要』(有斐閣, 1910年), 214頁.
 # なお、引用に際しては、旧字体・片仮名を新字体・平仮名に直し、濁
 # 点を付け加え、一部の漢字を平仮名に改めてあります。また、「{中
 # 略}」は安井による省略です。以下の引用でも同様です。
穂積の病気辞職後、上杉慎吉が東大の憲法講座を継承しますが、神権学派
が「世の風潮と合わ」ない少数説と化したことを反映して、1920年には立
憲学派を講ずる第二憲法講座が東大に設立され、美濃部がその担当教授に
就任します。さらに美濃部は、法制局参事官や文官高等試験委員なども兼
任し、学界のみならず、実務の世界でも主流の地位を固めていきました。
競争に敗れた神権学派の講座は、上杉が1929年に現役のまま病没すると、
後継者のないまま廃止となってしまいます。文字通り、「継続する者なし」
の「孤城落日」状態だったわけです。そしてこの時期、京大でも市村光恵
や佐々木惣一などの立憲学派が中心となっていました。
こうした展開について、『法律学小辞典』の「天皇機関説」の項は「大正
の初めには上杉との間で論争が起こったが、その後はむしろ学界の定説と
な」ったと解説していますし、佐藤前掲書も「美濃部憲法学がその後の日
本の憲法学の支配的潮流の源流となった」ばかりでなく、「実際の憲法運
用の上にも花を開いた」としています。
 # 『法律学小辞典』第三版(有斐閣, 1999年), 850頁.
 # 佐藤前掲書50頁.
そして、こうした立憲学派の優位を政治的に覆したのが1935年の天皇機関
説事件であることは、よく知られている通りです。

なお、こうした明治憲法の解釈をめぐる「学説状況」に関して、佐々木さ
んは
>>>>> なお、この問題については
>>>>> 佐藤功「日本国憲法概説」が詳しいと思います。
とし、同書第三章第一節の内容に言及しながら論じておいでですが、当該
箇所は憲法制定までの過程を論じた「明治憲法成立史」と、佐藤功教授自
身による明治憲法の概括的な解釈・性格規定を記した「明治憲法の基本的
特色」とから成るものであって、明治憲法制定後に憲法学説がどのように
展開したかを整理したものではありません。
 # 参照:佐藤功『日本国憲法概説』全訂第5版(学陽書房, 1996年), 
 #    43-46頁.
佐々木さんが記事<20040308215348cal@nn.iij4u.or.jp>で指摘しておられ
るように、同書が
> 司法試験をはじめ国家試験の憲法の基本書の1つとして通用していた
ことは承知しておりますが、明治憲法制定後の学説展開に関する引証基準
とすることは不適切であると考えます。佐藤功教授による学説整理を参照
するなら、同書ではなく、前掲『憲法研究入門』に所収された諸論攷の方
にあたるべきでしょう。


>>>>> 明治14年の政変の後、明治15年(1882年)に
>>>>> 伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパに赴いた時点で
>>>>> 明治政府の方向性もいわゆるビスマルク憲法(1871年)を向いていたと
>>>>> 私は考えています。

1871年のドイツ帝国憲法(いわゆるビスマルク憲法)には「神聖ニシテ侵
スヘカラス」に相当する条項はありません。
 # ドイツ帝国(第二帝政)は25の邦国から成る連邦国家であり、皇帝の
 # 称号を帯びる連邦主席は既にプロイセン国王としての無答責特権を有
 # していますので、わざわざ規定する必要がなかったのかも知れません。
 # このような、国家連合に近いような連邦国家としての特徴は、いわゆ
 # る人権カタログの扱いにも表れています。すなわち、既に各邦国の憲
 # 法がそれぞれ独自の権利保障規定を制定していたため、このビスマル
 # ク憲法は独自の人権カタログを列挙せず、“すべての邦国の臣民・市
 # 民には、他のどの邦国においても、その邦国の臣民・市民と同じ権利
 # の享受が保障される”(3条)と規定するにとどめています。
また、伊藤博文が影響を受けたのはプロイセン1850年憲法だとよく言われ
ますが、その君主無答責条項(43条)に書かれているのは「侵スヘカラス
(unverletzlich)」だけであり、「神聖ニシテ(heilig)」という言葉はあ
りません。
ですが、「神聖ニシテ侵スヘカラス(heilig und unverletzlich)」という
文言は、バイエルン王国憲法2条1項、バーデン大公国憲法5条、ヴュルテ
ンベルク王国憲法4条、ヘッセン大公国憲法4条、ザクセン王国憲法4条な
ど、プロイセン以外の有力なドイツ諸邦国の憲法に共通して見られる表現
です。私には、「神聖ニシテ侵スヘカラス」という日本語が「heilig und 
unverletzlich」の直訳にすら見えるのですが、どうでしょうか。
 # なお、ドイツ諸邦国の憲法は以下のサイトで見ることができます。
 # http://www.documentarchiv.de/da/fs-verfassungen.html
 # http://www.verfassungen.de/de/index.htm
そして、この「神聖ニシテ」や「侵スヘカラス」という文言は、美濃部も
指摘しているように、君主無答責を規定する際の常套句であり、現在でも
デンマーク王国憲法13条やノルウェー王国憲法5条が「神聖ニシテ」とい
う言葉を使っています。
 # 世界各国の憲法を集めたリンク集としては以下のものがあります。
 # http://confinder.richmond.edu/
これら明治憲法3条の“輸出元”での主意が君主無答責原則の成文化にあ
ることは論を待たないでしょう。そしてそうであるからこそ、神権学派は
天皇が現人神であるという主張を断定的に提示した上で、
 「欧州にありては神権の観念既に地を払い、君主を貶めて最高の官吏と
  為す。{中略}しかもなお、憲典の明文はその神聖にして侵すべから
  ざるをいう。この類の歴史の遺物はこれを遺物としてみるべきなり。
  {中略}この憲法の明文は我にありて初めてその積極の真義を発揮す」
という説明を展開することになります。
 # 穂積前掲書, 207-208頁. 
それに対して、明治憲法制定の中心人物である伊藤博文は、自らも手を入
れた注釈書『帝国憲法義解』(1889年)において、「神聖」の由来という
文脈で天孫降臨神話に言及しているものの、具体的内容としては、法的・
政治的無答責と不敬・大逆の禁止を淡々と説明しているだけです。穂積が
『憲法提要』の中で執拗なまでに天皇の神権性を強調し、「憲法第三条は
この固有の大義を掲げこれを永遠に昭らかにするものなり」(204頁)と
熱を入れて高らかに謳いあげているのとは対照的です。この点からすれば、
立法者たる伊藤の主意は「神格化」ではなく「無答責」にあったと見るの
が自然なように思われます。


>>>>>>質問二
>>>>>> 大日本帝國憲法 第三条はねその後“天皇神格化条文”と考えられる様に
>>>>>>なったのでしょうか。
>>>>> 
>>>>> その後ではなく最初からです。
>>>>> ちなみにこれは条文からも読み取れます。
>>>>> 天皇がなぜ統治権を有するかと言えば
>>>>> それは天孫降臨の神勅で、
>>>>> そこから続く万世一系の皇統こそが権限のゆえんであり
>>>>> さらにそこに疑問を抱くことすら許されなかったという点にあります。
>>>>> 3条に限らず明治憲法は天皇主権・天皇統治の原則で貫かれています。

明治憲法の解釈が分かれたり揺れたりするのは、その制定過程を鑑みれば、
仕方のない面もあります。
すなわち、明治憲法は、神権的国体観念を奉じて天皇親政を是とする天皇
側近らと、近代的な統治機構の下で内閣主導の政治を実現しようとしてい
た伊藤博文との間の妥協の産物であり、その中には双方の主張が混ぜ込ま
れているからです。決断の人と言うよりは妥協を好む政治家であった伊藤
が『帝国憲法義解』で天孫降臨神話に言及したのも、そうした妥協の一つ
の現れと解すべきでしょう。


>>>>>>質問三
>>>>>> 「君主無答責」は、日本国憲法 第五十一条【議員の発言・票決の無責任】 
>>>>>>          両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院
>>>>>>         外で責任を問はれない。 
>>>>>>の君主版と考えて良いでしょうか。
>>>>> 
>>>>> 全く違います。
>>>>> 君主無答責はドイツにおいては大臣責任制と同義です。
>>>>> そしてそれは「政治的無答責」だとされています。

明治憲法3条が政治的無答責だけでなく法的無答責をも意味するという点
については、伊藤博文・穂積八束・美濃部達吉の間に意見の相違はありま
せん。もちろん、理由付けの仕方は異なっていますけれども。


> 大臣責任制というのは
> 「大臣が議会に対して責任を負う」システムを指すのです。

上記の「大臣責任制」定義と、
>>>>> 君主無答責はドイツにおいては大臣責任制と同義です。
という御主張、さらに、君主無答責原則が19世紀後半のドイツ諸邦国にお
いて通例化していた事実とを組み合わせて考えますと、
 “君主無答責を憲法で明文化しているドイツ諸邦国では、大臣が議会に
  責任を負っていた”
と読めてしまうのですが、それは事実に反します。19世紀後半当時のプロ
イセンをはじめとするドイツ諸邦国では、君主無答責原則の下、大臣が君
主の行為に責任を負いますが、その責任を負うのは君主に対してであって、
議会に対してではありません。
そもそも、大臣責任制とは、国務に関する政治的責任を大臣が負うという
システムを指す言葉であって、責任を負う対象を議会に限定しているとは
限りません。この点に関して佐々木さんは、
> 例えば法律学小辞典(第1版)では
> 「とりわけ議会に対して負う責任で、
>  議会の信任を失ったときは退任・総辞職する責任。
>  明治憲法では、この責任は明定されず」
> としています。
と引用しておられますが、この「とりわけ議会に対して負う責任」の前に
 「大臣又はその総体としての内閣の政治的な責任」
という基本的定義が記されていることを見落としておいでです。
 # 『法律学小辞典』第3版(有斐閣, 1999年), 757頁.
確かに議院内閣制は大臣責任制の存在を論理的に前提としており、歴史的
にも密接な関係を持ってはいますが、君主に責任を負うという形の大臣責
任制もあるのですから、厳密に言えば両者は同義ではありません。
そしてこの大臣責任制と議院内閣制(美濃部憲法学の用語を使うなら「責
任政治の原則」)の区別に立脚するなら、
>>> 法学協会著 有斐閣発行 詳解日本国憲法p90から
>>> (なお新漢字に直しています)
>>> 「これは一応、大臣責任制を導入し、立憲君主制を採用するものということ
>>>  ができよう。だがそこには、旧憲法特有の独自性、例外、留保が数多くつ
>>>  きまとっていた。そしてそのうちいくつかは、責任政治の原則そのものを
>>>  否定し去りうるほど大きな例外であったのである。」
という一節は、
>>> 結局形式は大臣責任制かもしれないが実質は違うと言っているのです。
ではなく、“「大臣責任制」は導入されたが、「責任政治の原則」(議院
内閣制)の完全実現は阻まれていた”と読まれるべきではないでしょうか。

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*  Freiheit  | 安井宏樹(YASUI Hiroki), jyasui@mail.ecc.u-tokyo.ac.jp     *
*  Recht     | 東京大学大学院法学政治学研究科・比較法政国際センター      *
*  Einigkeit | (現代ドイツ政治,ヨーロッパ政治史)                        *