SASAKI Masatoさんの<20040221111221cal@nn.iij4u.or.jp>から
>佐々木将人@函館 です。
>
>話の内容いかんでは問題を整理してfj.sci.lawにふりますが……。
>
>なお、この問題については
>佐藤功「日本国憲法概説」が詳しいと思います。
>
>>From:Shiro <h9shiro@tky2.3web.ne.jp>
>>Date:2004/02/21 07:47:50 JST
>>Message-ID:<c162pq$2r8f$1@usj.3web.ne.jp>
>>
>>質問一
>> 大日本帝國憲法 第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 
>>は伊藤博文が作った時点では、“天皇神格化条文”ではなく、欧州の憲法に
>>在った「君主無答責条文」と考えて良いでしょうか。
>
>むしろ天皇神格化条文と読むべきでしょう。
>どちらかと聞かれれば。

 webで調べた範囲では、君主無答責条文とするページには『美濃部達吉
「憲法撮要」によれば、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の意とは、・不敬
をもって天皇を干犯することはできない。・天皇はその全ての行為に責任がな
い』と言う説明がありました。しかし、天皇神格化条文とするページには特に
説明が無く、天皇神格化条文とする理由が不明です。

 憲法制定には不平等条約改正という目的もあり、交渉相手がキリスト教国で
ある事を考えると、伊藤博文が交渉に不利になる天皇神格化条文をわざわざ入
れたとは思えません。


>ちなみに
>・憲法制定の声があがったのは自由民権運動の側であり
> 議会設置の主張→議会の前提となる憲法制定
> というものであり、そもそも反明治政府という色彩があった。
>・政府内でも大隈重信はイギリス的政党政治を主張していた。
>・しかし明治14年(1881年)の政変で大隈重信は政府から追放されてしまう。
>という歴史的経過に鑑みれば
>明治14年の政変の後、明治15年(1882年)に
>伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパに赴いた時点で
>明治政府の方向性もいわゆるビスマルク憲法(1871年)を向いていたと
>私は考えています。

 後進国の日本が先進国になるために手本とすべき憲法は、先進国の憲法か、
後進国から先進国になった国の憲法か、と考えるとビスマルク憲法を志向して
も不思議では有りません。


>なお
>「欧州の憲法に在った「君主無答責条文」」というのには
>私自身は抵抗があります。
>もともと君主無答責という語自体
>単純に「責任を負わない」という意味ではなく
>それに何らかの意味づけをした上で使用される
>どちらかというと政治学における用語だと思いますが
>単純に「責任を負わない」という意味だとしても
>当時の欧州の憲法を「責任を負わない」という点でくくっていいかと言えば
>それはあまりにも荒すぎると思うのです。
>……同じ君主制でもイギリスと1871年当時のドイツでは
>  意味が全く異なるからです。
>(この点は質問三に関係してきます。)
>
>>質問二
>> 大日本帝國憲法 第三条はねその後“天皇神格化条文”と考えられる様に
>>なったのでしょうか。
>
>その後ではなく最初からです。
>ちなみにこれは条文からも読み取れます。
>天皇がなぜ統治権を有するかと言えば
>それは天孫降臨の神勅で、
>そこから続く万世一系の皇統こそが権限のゆえんであり
>さらにそこに疑問を抱くことすら許されなかったという点にあります。
>3条に限らず明治憲法は天皇主権・天皇統治の原則で貫かれています。

 最初からそうなら天皇機関説排撃運動は起きなかったと思います。排撃運動
が起こったのは「明治憲法は天皇主権・天皇統治の原則で貫かれています」と
考えられていなかったのでは。


>>質問三
>> 「君主無答責」は、日本国憲法 第五十一条【議員の発言・票決の無責任】 
>>          両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院
>>         外で責任を問はれない。 
>>の君主版と考えて良いでしょうか。
>
>全く違います。
>君主無答責はドイツにおいては大臣責任制と同義です。
>そしてそれは「政治的無答責」だとされています。

第五十五条 
  1.国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス 
  2.凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス 
は大臣責任制を示しているのでは。