YASUI Hirokiさんの<ymrm8yhzn5a4.fsf@sx102.ecc.u-tokyo.ac.jp>から
>穂積の病気辞職後、上杉慎吉が東大の憲法講座を継承しますが、神権学派
>が「世の風潮と合わ」ない少数説と化したことを反映して、1920年には立
>憲学派を講ずる第二憲法講座が東大に設立され、美濃部がその担当教授に
>就任します。さらに美濃部は、法制局参事官や文官高等試験委員なども兼
>任し、学界のみならず、実務の世界でも主流の地位を固めていきました。
>競争に敗れた神権学派の講座は、上杉が1929年に現役のまま病没すると、
>後継者のないまま廃止となってしまいます。文字通り、「継続する者なし」
>の「孤城落日」状態だったわけです。そしてこの時期、京大でも市村光恵
>や佐々木惣一などの立憲学派が中心となっていました。
>こうした展開について、『法律学小辞典』の「天皇機関説」の項は「大正
>の初めには上杉との間で論争が起こったが、その後はむしろ学界の定説と
>な」ったと解説していますし、佐藤前掲書も「美濃部憲法学がその後の日
>本の憲法学の支配的潮流の源流となった」ばかりでなく、「実際の憲法運
>用の上にも花を開いた」としています。
> # 『法律学小辞典』第三版(有斐閣, 1999年), 850頁.
> # 佐藤前掲書50頁.
>そして、こうした立憲学派の優位を政治的に覆したのが1935年の天皇機関
>説事件であることは、よく知られている通りです。

 天皇機関説事件の後、東大の憲法講座では、神権学派の講座が復活し立憲学
派の講座が廃止されたのでしょうか。
 また政治の主導権は、議会から再び内閣に戻ったのでしょうか。