阿部です。

In article <BB241C5B.127%yukawaml@p4.numse.nagoya-u.ac.jp>,
 Nobuki Yukawa <yukawaml@p4.numse.nagoya-u.ac.jp> wrote:

> 状況やら証拠やら捜査体制やらさまざまな事情で捕まる人
> 捕まらない人、捕まっても処罰される人、されない人など
> 出てきますが、それはあくまで結果の話でして、そこに至る
> までの間になんらか非合理的な理由があってそういう結果になったので
> ないのなら、それは「公平」と言えるでしょう、という意味です。

結局、確率の問題ではなく、確率的に不公平であっても、
あるいは必ずしも全員が捕まらなくても、説明がつけば
いいということですよね。等しくなくても、ある程度の
範囲を等しいものと考えましょうということではないの
ですか?


> 異なる人間が異なる時間・場所で周りの状況も含めて全く同一の
> 犯罪を犯すことは不可能ですよね。だけどそれを、
> ある局面では「同じなのに不公平だ」といい、別の局面では
> 「違うのに不公平だ」という。
> 要は単に「不公平だ」と主張したいだけ、そうすることで不満を
> 言いたいだけってことで、そういう点でどちらも同じなんです。

ずーっと疑問なのですが、心理学的に説明をしていますが、
「不公平だ」という声が本当にただそう主張したいだけか、
実際「不公平だ」といわれても仕方がないことなのかという
検討って、全然しなくていいものなのですか?

例えば、「不公平だ」といわれても、駐車違反の取り締まりが、
渋滞発生地域とか、事故多発地帯とか、子どもが遊ぶ公園の
周囲とかで重点的に行われているとかであれば、たとえ確率的に
一緒でなくても、話として説明がつくと思うのです。

それが、何だかよく分からないけどときどき駐車違反を取り
締まっているというのであれば、「なんで自分ばっかりが
そうなるのだ。不公平だ」という感覚を助長しやすい気が
します。

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阿部圭介(ABE Keisuke)
koabe@mcc.sst.ne.jp (NetNews用)