In article <e57265$1r9$1@caraway.media.kyoto-u.ac.jp> kodera_m@cool.odn.ne.jp writes:
>> 軌道線が別会社に分離されたのは平野線廃止の時なので
>> 1980年末のことになりますが、
>> その数年前に運賃体系が分離されるまでは、
>> 鉄道線と軌道線とが一体の運賃体系でした。
>現在のようなワンマンだと乗換え券を出すのがせいぜいに思えますし、
>当時は車掌さんが「xxから○区」のような券を切っていたのでしょうか...?
それどころじゃないです。
ほとんどの停留所で「乗車券を販売」していましたし、
全ての終着を含む主な停留所で「地上職員による集改札」が行われていました。
今では到底考えられない人手の使い方ですね。

尤も、乗車券の販売は、
近所のタバコ屋さんに委託してる例が多かったと思いますが。

ところで、別会社に分離される「数年前」と書きましたが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%85%AC%E5%9C%92%E9%A7%85
によると、「住吉大社駅」への改称が1979年5月9日ということなので、
「1年半前」ですね。

>かつて、滋賀の会社の経営再建に銀行から派遣されていた祖父のも
>とを訪ねた際、京阪の大津線と鉄道線が通し運賃だった様に覚えて
>います。唐橋前から「○区」の○にスタンプを入れた券を買い、
>三条では大津線(石山寺から直通)準急と平面乗換えで特急が接続を
>取っていました。祖母曰く、「四条まで乗っても値段が同じ(区)だ
>から」というのをはっきり覚えており、四条通りから京都観光を
>スタートしました。
>この時点ではここも通しだったんですよね。当時の区間制は(今は
>関西大手も対キロ区間制ですよね?)、通しにしても軌道線区間の方
>を距離比高めにしておくとかも出来たんじゃないかと、今更ながら
>思いますが。
京阪の軌道線と鉄道線の通し乗車券が発売されなくなったのは、
「直接には乗換できないという意味で孤立したとき」
つまり、地下鉄開通に伴って蹴上以西が廃止されたときです。

鉄道線が区間制だった時代(自分自身の記憶にはあるんですが、
京津線まで視野に入っている年齢では無かった)のことは判りませんが、
鉄道線が対キロ区間制で軌道線が区間制の時代には、
「別々に計算して、通し割引を適用する」形になっていました。

10年近く前の記事を引用します。

Newsgroups: fj.rec.rail
Subject: Re: [Keihan] Kei-shin Line
Date: 10 Jun 1996 00:04:34 GMT
Message-ID: <4pfoqi$l1t@nws-5000.lbm.go.jp>
>京阪時刻表の創刊号(1980年:初乗り70円)と
>その次の1982年号(初乗り80円)では、
>>運賃制度上「四条〜東山三条」は京阪線でかつ京津線でした。
>>つまり、大阪の方からは、東山三条までは対キロ運賃で
>>大津の方からの場合には、四条まで区間制運賃が適用されました。
>>ですから、大津方面からは確実に蹴上と四条が同一運賃でしたし、
>>大阪方面の場合も、四条と東山三条が同一運賃という可能性が高かったのです。
>>直通の場合は常に四条打切でした。
>>ですから、「四条〜東山三条」間のキロ数に対応する運賃が
>>実質的に「直通割引」になっていました。
>になっています。この段階では単純な計算だったので
>京阪時刻表でも計算方法が明記されています。
>
>次の1984年号から
>>その後、いつのことかは覚えていませんが、三条打切で
>>三条から乗車駅・降車駅のいずれかまでの距離が短い場合には
>>距離に応じていくらか割り引くという現在の方式になりました。
>>ただ、当初は昔の制度を意識したのか、
>>「東山三条〜京阪線各駅」「四条〜京津線各駅」の場合には
>>「三条までの運賃+10or20円(三条までの運賃により変わる)」という
>>例外的な運賃を適用していましたが、
>に変わっています。

このあと、割引額の変遷を記述していますが、
長くなるので、気になる方は、アーカイブで元記事を探してください。
googleにもあります。

http://groups.google.co.jp/group/fj.rec.rail/msg/f124c18cf63673d4

                                戸田 孝@滋賀県立琵琶湖博物館
                                 toda@lbm.go.jp