Re: 通信の秘密はこれを保障する(憲法21条)
SASAKI Masato wrote:
> 佐々木将人@函館 です。
なるほど。ところで、あなたは芦辺あるいは佐藤がどう言うかを見てからでない
と、憲法については何も考えられないとする立場のようですが、そは如何に?
佐藤や芦辺が存在し、主張する以前に既に憲法はあり「法解釈」も存在する。よ
うするに、憲法が存在すると同時に憲法解釈は存在したのです。その意味では今
頃こんな事を説明するあなたは、怖ろしいほど「センス」が欠落していると言え
るでしょうね。何故、もっと以前にこういう説明が出来なかったのでしょうか?
出来なかった可能性としては、3点ほど挙げられるかもしれない。
(1)芦辺や佐藤がこのようなことを主張しないと、このような考えさえ誤りだ
とし、自らそのことに縛られ他を批判すると言う、今とは逆さまの愚を犯
していた。その原因は、すなわち、「法解釈」自体を、誰か名だたる者の
「解釈例」の出現を知ること、というように捉える誤謬に陥っていた。
(2)もともと余り頭がよく無い。よって憲法自体の中身を読みきれないから真
似をするだけ。と言うよりも法解釈の視点を見失っている。これを「セン
スが無い」と言おう。案外と、この「センスが無い」ことと(1)は密
接に絡み合っているような気もする。
(3)憲法自体を目の前にし、せいぜい、どんな教科書でもいいから思考のきっ
かけを与えてくれるものさえあればよく、ところが、価値の比較検討と優
劣に対する自分の立場を決められない「おこちゃま」で、且つ、原理原則
と過去、現在、そして予測としての将来の事実さえあれば自らが思考する
ものという「法学の基本」さえ分からないまま現在に至ってしまった。
なお、「センス」の無い者でも膨大な時間とそれだけを扱っていれば何か
賢そうな意見が言えるのも法学の世界である。雑知識だけは増えるから。
ゆえに、アインシュタインはあんなに賢いにせよ、S氏よりは法学に言う
用語を知らないからS氏のほうが優れた法律的知見を示せるもの、などと
言うような馬鹿げた立場を私は取らない。これは喩えですが。>ジョーク
逆に、わたくしは、この「センス」について言う限りは、法学の世界は今どう
なっているかなど覗く時間が無いけれども、したがって法学界が今何を関心事に
据えているかなど分からなくとも、賢い意見、価値ある意見、特に法学界の中に
いてはなかなか考えの及ばない視点あるいは見えない価値を示唆する投稿にこそ
興味があるわけです。実はそれが法学を強く動かす。何か誤解しているようだが
あなたの記事などは法学に関してさえ最も貢献する事の無い記事だと思う。
>>From:ABE Keisuke <koabe@mars.sakura.ne.jp>
>>Date:2005/05/07 14:08:59 JST
>>Message-ID:<koabe-0CD113.14085907052005@news01.sakura.ne.jp>
>>
>>私人間の場合は憲法とは異なる何かを出発点におかなければ
>>ならないのか、その場合「憲法とは異なる出発点ですけどね」と
>>わざわざ断らなければいけないのか。
> 「だから人権って絶対じゃないよね。制限され得るよね。
では、こういう言い方はまずいのでしょうか?
人権は絶対である。しかし、この絶対は人権外からの制約を受ける。
たとえば、ここにはただ一個のりんごがあるがそれを食べれる権利
は絶対である。しかし、権利の説明としては「絶対」で何ら問題は
ないが、或る事実がそれを阻む。そのりんごを食べれる人がもう一
人いるという事実である。あるいは、りんごとは明記されないまで
も何がしかの食物が与えられるべき者がもう一人いると言う事実。
どうでしょう?もし、このような絶対視の否定であるならば大して意味は無いと
思う。こんなことは法を超えた一般常識の問題で、「法=権利の性質」の説明と
は無関係。現在の法学はこの事実的常識と権利の性質の問題とをごっちゃにして
はいまいか?
次のように考えた時には逆に180度転換して大いに意味の有る問題へと変化す
る。法=権利の解釈は「現在の」社会情勢と切り離しては考えられないのであっ
て、まさに今現在は社会では人権の絶対視から来る偏重が起こっている、その状
況は了承できないとの価値観からすれば、<人権は絶対である>とすることには
意義がある。
反対に、社会が、たとえば日本国の肥大化行政が国民の一人一人の立場を無視せ
ざるを得ない状況を招いている。しかも、今民間の力が弱く、行政の顔色伺いに
甘んじなければならない状況が起きていて、行政に対して個人の多くが萎縮し
て、役人との関係では何かと人権を主張するのをはばかる情勢にあったとしよ
う。こういう社会情勢の下においては<人権は絶対のもの>として機能させなけ
ればならないのです。
以上から、一般の権利の解釈同様、人権自体も解釈の内部に有るとし、制限規定
は無視しするか人権は絶対であるとして、後は社会情勢とリンクした「解釈」に
任せると言う立場が優れた考え方のように思う。要するに、法を説明することば
は、或る事実に対して権利や法がどのように機能するかをそっちのけには何も決
められないと言う事。
> その制限の基準と範囲を議論することにしようや。」
> でその先の議論に進んでいます。
> (ある意味「終わった論点」な訳です。)
そう言い切るところがあなたのお粗末なところ。新しい法に関する発見は既にお
蔵入りとなった古い「不確定事項」を暖めることで見出しうるのであって、多勢
が今何をおしゃべりしているかに追随するななからは価値有る発見など出来やし
ない。
> それは芦部先生によれば
> 「人権規定の効力が相対化することを認めれば、
> 実際上は間接適用説とほとんど異ならないことになる。」
なら、直接適用説とほとんど変わらないと言ってもおんなじじゃん。
> 佐藤幸治先生によれば
> 「基本的人権の侵害が問題となる私法的関係の性質や事情に即して、
> 法律の解釈などを通じて調和のある合理的解決がはかられるべきものと
> 解される。」
> となるのです。
>
> 直接適用説と間接適用説の違いを
> 「直接適用になるか、私法の一般条項を通すか」という
> テクニックの違いと考えては大間違いです。
> 憲法の基準で判断するか
意味不明。なにその「憲法の基準」って?それを言うならば全てが憲法の基準
じゃないのかなぁ。私的自治を認めることも憲法の基準である。この際歴史的経
緯は無視。
> 憲法の基準に加えてその他の基準もあわせ考えるか
> そういう違いな訳です。
やはり意味不明。
> 直接適用説であれば、芦部先生の言う
> 「実際上はほとんど異ならない」
> になる訳です。
だから最初からそうだと言っているのだよ。あなたは未だに分かっていないよう
だけれども、このようなことはいわゆる一般的に言われている「利益考量」と同
じ立場に立つこと。ところで、「利益考量」が何故許されるか?憲法は国家権力
に対する制限として機能するだけではなく、一般的な社会のあり方=価値をも規
定するものと言う風に捉えて初めて可能となる。
> 効力の相対化というのも同じ意味で
> 憲法が私人間に適用される時には
> 国家権力に対する基準とは話が変わってくるんだということを認める
あなたは単に「利益考量」の対象である利益と価値の性質の違いを言うに過ぎな
いことにお気づきではないようです。人が教科書に書いたことばのまんまにまた
その順序どおりに暗記するだけだからそういうことになる。それにしても、今頃
なぜ?芦辺や佐藤を読んだから?それはまた別の機会にして、この程度のことは
教科書など読まなくとも自分で考えれば出てくることではないのかなぁ。人が書
いたのを見ないと何の発見も出来ないんじゃ、法学をやっているといか言っても
なんだかなぁ、、。
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