! "<40373a54$1$19845$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
!     Sat, 21 Feb 2004 20:00:44 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:

> KGK == Keiji KOSAKAさんの<c0v998$hm7$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>> だから、その行動規範を極個人的主観的な類推程度に留めてしまったのでは、
>>> 主観的な「俺様が迷惑を感じたから」を全面肯定するのと同じ轍を踏むことに
>>> なるでしょう。従って、行動規範や基準は社会的客観的なものである必要があ
>>> るわけです。
>> 
>> で、「行為の評価」の段階で行動規範や基準の話を混ぜる理由はなに?
>> 行為の評価は行為の評価でやっとかないと、その後の組み立てができないのに。

> 違うって。
> 混ぜてるんじゃなくて、行動規範や基準の話に*つなげる*ためには、行為の評
> 価自体を客観的に行う必要がある。って言ってんの。

もちろん、行為の評価は客観的に組み立ててます。
行動規範とか基準とか行為の関連性とかいった余分な構造を取り入れてないか
ら、かなりシンプルにできます。

> KGK氏の主張は結局のところ「嫌煙者の主観を丸呑みしろ」じゃん。

このスレッドでそんな話は一言もしてませんね。
# まあ、どのスレッドでも言ってないことだけど。

> =====

>>> で、
>>> 「正しい行為である批判を特段の理由もなく*したりしなかったり*する」のは
>>> オカシナ話だし、
>> 
>> 何故?
>> 正しい行為をするのは正当だけど、正しい行為をしなかったからと言って不当
>> なわけじゃないよね?

> http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%95s%93%96&kind=ej&mode=1&jn.x=36&jn.y=13
> KGK氏の好きな*辞書通りの意味*に基づけば不当と言えるでしょう。
> 「理由もなくしたりしなかったり」ってのは正しく「不当な差別」ですよね。

いいえ。「理由もなく」だと「不当な差別」にはなりません。
「不当な理由に従って」だと「不当な差別」になり得ますが。

普通の人は、正当なことを全て行うことはできません。だから、自分のやりや
すいことからやるんです。それを不当だと言ったら、正当な行為など一つもで
きません。

>>> 他人に対しては「正しい批判に従わなくて良い理由はない」
>>> で自分に対しては「癖になってるから従わなくても良い」ってのは明らかに不
>>> 公平だよね。
>> 
>> そんな主張は誰もしてません。

> 本当に?

本当にしてません。

> じゃあ繰り返しますが、
> では何故、その批判者は自らが自分自身に向けたであろう正しい批判に従わな
> かったのでしょうか?

何故、私がそんなこと知ってるんでしょう?
どっちにしても、「自分自身に向けたであろう正しい批判に従わないこと」は
間違ったことだと再三言ってます。
いまだに理解できてないようですが。

それと、「他人に向けて正しい批判をすること」の評価との間にどんな関係が
あるんでしょうか?

> =====

>>>> 「自分の行為」の評価が「他人の行為を批判すること」に関係ないから、その
>>>> 批判が通用するんです。
>>>> 逆に言えば、「正しい批判をする」ということが「自分の行為」に対する免罪
>>>> 符にはならない。
>> 
>>> それは当事者の両方に同様に言える事ですから、全然ループの否定になってな
>>> いんですけど…。
>> 
>> そのときの問題点は「他人の批判に耳を貸さないこと」ですね。
>> 自分を棚上げにしようがしまいが関係ない。

> 自己棚上げでなければ自己に対する批判自体が存在しません。

いいえ。
例えば、「割り込み乗車の常習犯が他人のポイ捨てを批判する」といった場合
も、全く同じ議論ができます。
# それさえも「自己棚上げ」に分類して、しかも「自己棚上げな行為は不当」
# なんていうのなら、「完全無欠の人間じゃなけりゃ他人の行為を批判するべ
# きではない」と言ってるようなものだよね。

というわけで、

> 「どちらでも関係ない」ではなく「自己棚上げでないという前提では成立しな
> い」です。

これは言えないわけ。
「自己棚上げ」なんて余分な構造を持ち込んで、それにこだわるから、話がや
やこしくなってんです。

> そして、依然として「全然ループの否定になってない」です。

どこが?

もちろん、人単位で見れば、「ループ」は起こし得ます。でも、それは、「自
己棚上げ」を肯定しようが否定しようが同じことです。
行為単位で考えれて、「自己棚上げ」のような行為の関連性などという余分な
構造を持ち込まなければ、ループは存在しません。
それぞれの行為は、
>>> ・「自分のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
>>> ・「他人のポイ捨て」はルール違反だから、正しくない
>>> ・自分のルール違反を批判するのは正しい
>>> ・他人のルール違反を批判するのは正しい
という風に、白黒はっきりしています。

>>> で、ある条件下にある人が批判という行為を行えば自動的にその結果は自己棚
>>> 上げになり、批判しなければ自己棚上げにならないわけです。この場合、批判
>>> と自己棚上げは切り離しようもないことです。自己棚上げという行為があるわ
>>> けではないのですから。
>> 
>> 「自己棚上げ」という行為がないのに、「行為の評価」として自己棚上げを批
>> 判するからおかしなことになるんです。

> 「自己棚上げ」というのは行為の属性ですね。
> 青リンゴの「青」、毒リンゴの「毒」等と同様の関係性を持ちます。

というより、「木にぶらさがったリンゴ」の方が比喩として近いですね。
その場合、評価の対象として、「そのリンゴ」「その木」「そのリンゴと木を
セットにしたもの」が有り得るわけです。

普通は、「木にぶらさがったリンゴ」を評価すると言えば、「その状態のリン
ゴ」を評価することです。それは、例えば、「一般的なリンゴ」と「木にぶら
さがったことによる影響」の二段階に分けて評価することが可能です。
wacky氏は、何故かその可能性をかたくなに否定しているようですが。

> 行為によって生じる状況の変化という観点からは結果ともいえますし、当然予
> 測可能な結果であることからKGK氏流には目的と考えることもできるでしょ
> う。

下でwacky氏が肯定しているように、批判をするかどうかで「自己棚上げ」で
あるかどうかが変化するわけじゃありませんので、これは言えないでしょうね。

>> 批判しようがしまいが、自分の行為に問題点に関して解決を先延しにしてるこ
>> とには違いないんで、「棚上げ」でしょ?

> そりゃそうだ。しかし、批判しない限りは「自己棚上げの批判」という*行為*
> にはなり得ません。

批判しようがしまいが「自己棚上げ」だと言えるのなら、

>>> で、ある条件下にある人が批判という行為を行えば自動的にその結果は自己棚
>>> 上げになり、批判しなければ自己棚上げにならないわけです。この場合、批判
>>> と自己棚上げは切り離しようもないことです。

ということは言えないわけ。

> =====

>>> KGK氏の主張に基づけば「俺様は癖になってるんだから仕方ないだろ。そのう
>>> ち直すよ。スパスパ」なんてのまで許容せざるを得ないわけですが、
>> 
>> 何故でしょう?
>> wacky氏には、それが癖を直す努力をしてるように見えるんですか?

> 努力ってのは迷惑同様目には見えないものですから。

普通は、効果の出てない努力など評価されません。

> 主観的な迷惑の主張を受け入れるんなら、主観的な努力の主張も受け入れざる
> を得ないでしょう。あるいはどちらも受け入れないという考え方もありえま
> す。ただし、都合良く切り替えるのはダメダメです。

きわめて短絡的ですね。

「主観的な迷惑の主張」を全て受け入れる人などいないでしょう。
受け入れるのなら、その妥当性をいろいろな面から検討してからの話ですね。
同様に、「主観的な努力の主張」を全て受け入れる人などいないでしょう。
受け入れるのなら、その妥当性をいろいろな面から検討してからの話ですね。
-- 
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK