! "<bneas9$dcm$1@bgsv5647.tk.mesh.ad.jp>" という記事で
!     Sun, 26 Oct 2003 02:11:37 +0900 頃に 頼光  さん は言ったとさ:

> In article <bndd6a$psk$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>, KGK == Keiji KOSAKA wrote:
>> あと、
>> ・対話モードでは、こちらの質問に相手がストレートに答えてさえくれれば議
>> 論が進展するように、質問の仕方を選ぶ。
>> ってのもあります。
>> そういう意味では、(頼光さんにとっては対話モードではないかもしれません
>> が)「ということにしたいのですね」というのはストレートに答えれば「いい
>> え」とか「私の願望など関係ありません」とかなるんでしょうが、それだけで
>> は議論が進展しないことがほとんどでしょう。

>  仮にそういう答えがあったら、そして共に事例があるので
> すが、進展を意味します。

>  「いいえ」でも「私の願望など関係ありません」でも、願
> 望のみでないと主張しているわけです。

「願望のみでない」という表現だと願望も含まれてるように見えますが、どち
らの答えも「願望ではない」というものですね。

> であれば、何らかの
> 裏づけがあることになります。

願望ではないけど、漠然とそうなるだろうと考えていても、同じ答えになりま
すね。
つまり、「いいえ」でも「私の願望など関係ありません」でも、裏付けの有無
さえ明らかにしない答えだということです。

「はい」と答えても同じこと。
願望であり、かつ、根拠のある主張であるというのは、論理的に矛盾した話で
はありません。

というわけで、願望であるかどうか聞いても、ストレートに答えられると議論
の進展が見込めないということになります。

>> 実は、こうしたことの副産物として、「普通の人にも分かりやすい議論になる」
>> という効果があります。普通の人がよく考えれば分かるという程度ではなく、
>> 普通の人が一目見ればほとんど分かるような議論です。

>  これはまた、価値観の問題ですね。

>  私は、よく考えない人物には、議論には参加して欲しくあ
> りません。従って、その「副産物」に、私はさしたる価値を
> 感じません。

読みにくいレポートに採点の価値がないのと同じことで、どんなに正しいこと
を書いても理解されなければ無駄です。

>> さらに、議論の演習にもなりますし、問題解決の演習にもなります。特に、質
>> 問の選択は、質問の答を得ることよりも問題解決にとって重要なので、最近は
>> その辺を頭の片隅に置いて議論するようにしてます。

>  私はそれほど親切な人間ではありませんから、自分でそれ
> をする気にはなりませんね。むろん、KOSAKA 氏が実施する
> のは親切なことですばらしいとは思いますが。

この部分は親切と言われる筋合はないですね。
自分のスキルアップに役立つと言ってるんですから。

研究者ならみんな経験してるだろうし、そうでない人も経験してる人は多いと
思いますが、
自分の主張が自分自身一番よく理解できるのは、レポートや論文など他人に説
明する形にまとめたときです。
それも、もの分かりの悪い読者を想定して書くことで、論理展開の穴をつぶす
ことができます。
fjでの議論は、そのための演習として悪くない題材ですね。

>> 対話可能ってのは、
>> ・日本語として解釈可能である
>> ・論点の構成もしくは保持を目指してると推測できる
>> というぐらいのことを言ってます。
>> 純粋な情緒モードではなく、かつ、何か主張しようとする姿勢の見られる文章
>> のことですね。
>> 
>> その記事を題材に何か述べようとするのなら、その程度のことは判断しとかな
>> いと無理な場合が多いでしょう。

>  が、第二項の「推測」は、私のスタンスでは無意味である
> ことは、自明でしょう。馬鹿本人が何かを主張したいのだと
> しても、馬鹿の言からそれを正しく汲み取ることはできない
> というのが馬鹿の定義です。従って、そんな推測は意味の無
> い話です。
>  そんな推測をすることは、私の妄想の表出に他なりません
> から、そんな真似を議論の場でするのは、まさに馬鹿な行為
> です。

日本語として言葉通りに理解できる範囲で主張を理解すれば、妄想にはなりま
せん。
その主張が馬鹿本人の意図と違ったところで、それはその馬鹿の都合であって、
こちらには何の関係もありません。

>> 可能性の問題ではなく尤度の問題とすれば、大抵の場合、「ということにした
>> いのですね」というのは元記事投稿者に対する確認の意味に解釈されるのが普
>> 通でしょう。

>  そこだけ切り出して論じても仕方ないでしょう。
>  「ときおり明示的にそれを否定」とセットで読解すること
> が大切です。

そこだけ切り出しても通用するように書くってのが、馬鹿にも理解できそうな
文章のこつです。

>> 何度も明示的に否定するよりは、一般読者に向けたメッセージだという解釈を
>> されやすい表現を選んだ方がコストがかからないでしょう。

>  それは、KOSAKA 氏の感性ですね。
>  私はそうは感じていないということです。

感性の問題ではありません。
誤解されにくい文章を書くための当然のタクティクスです。

>> 私なら、「ということにしたいようです」とか「ということにしたいのだろう
>> なあ」とか「ということにしたいらしい」とか、その手の表現を選ぶでしょう
>> ね。そういう表現だと元記事投稿者への確認とはとられにくい。

>  これは、事例の蓄積というものの効果を無視した議論です
> ね。もしくは、事例の蓄積というものの価値を KOSAKA 氏が
> 認めていないか。

事例の蓄積なんてのが馬鹿に通用するはずもありませんし、前例を見てない読
者にも無駄です。
単独でも誤解されにくい表現を選んでおけば、事例の蓄積に頼らずとも誤解さ
れにくいでしょう。
さらに、ときどき解説すれば、蓄積によってより誤解されにくくなる。

>> # なおかつ、それに対する反応で、元記事投稿者がどの程度のことを考えてる
>> # かをある程度推測できる。

>  ここは、パーフェクトに感性の問題です。
>  実際問題、私は「ということにしたいのですね」というフ
> レーズへの対応で、元記事投稿者がどの程度のことを考えて
> るかをある程度推測できます。

この辺は、「ということにしたいのですね」と同様の効果があると言いたかっ
たんです。
同様の効果があって、かつ、誤解されにくい。

# でも、相手の反応待ちってことは、やはり、「相手にしてる」と見られても
# しょうがないかな。
# 「相手にしてない」ってのなら、元記事投稿者から主張を引出すような目的
# で記事書いちゃいかんよな。

>> 頼光さんの意図に反して「相手にする」と元記事投稿者や一般読者に解釈され
>> やすいのは、意図を最もよく表わす表現になってないからじゃないですか?

>  残念ながら、違います。

>  そもそも、前提である「されやすい」とできる根拠は、ど
> こにあるのでしょう?

フォローアップしてるというだけで「相手にしてる」と見られるのは、割と普
通の話でしょう。
フォローアップして、かつ、「相手にしてる」と見られないようにするには、
よほどの工夫が必要です。

そして、どれだけ工夫してても、「ということにしたいのですね」などの元記
事投稿者への確認と思われる表現があれば、「本音はそっちか」と思われてし
まうわけですね。
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KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK