In article <bndd6a$psk$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>, KGK == Keiji KOSAKA wrote:
>>  まあ、可能性はあるかも、というレベルで言いたいことは理解
>> しました。
>
>あと、
>・対話モードでは、こちらの質問に相手がストレートに答えてさえくれれば議
>  論が進展するように、質問の仕方を選ぶ。
>ってのもあります。
>そういう意味では、(頼光さんにとっては対話モードではないかもしれません
>が)「ということにしたいのですね」というのはストレートに答えれば「いい
>え」とか「私の願望など関係ありません」とかなるんでしょうが、それだけで
>は議論が進展しないことがほとんどでしょう。

 仮にそういう答えがあったら、そして共に事例があるので
すが、進展を意味します。

 「いいえ」でも「私の願望など関係ありません」でも、願
望のみでないと主張しているわけです。であれば、何らかの
裏づけがあることになります。となれば、それを述べる責任
が明確になるわけです。
 で、それが述べられなければ、「いいえ」にしろ「私の願
望など関係ありません」にしろ、それ自体が願望のみである
ことが明確になるわけで、主張が崩壊することの証明となり
ます。

 このことは、述べられるにしろ述べられないにしろ、進展
しているということです。

>> # 可能性は0ではないでしょうが、私自身が労力をかけるほどに
>> # は、可能性の量を感じないのはありますが。
>
>実は、こうしたことの副産物として、「普通の人にも分かりやすい議論になる」
>という効果があります。普通の人がよく考えれば分かるという程度ではなく、
>普通の人が一目見ればほとんど分かるような議論です。

 これはまた、価値観の問題ですね。

 私は、よく考えない人物には、議論には参加して欲しくあ
りません。従って、その「副産物」に、私はさしたる価値を
感じません。

>さらに、議論の演習にもなりますし、問題解決の演習にもなります。特に、質
>問の選択は、質問の答を得ることよりも問題解決にとって重要なので、最近は
>その辺を頭の片隅に置いて議論するようにしてます。

 私はそれほど親切な人間ではありませんから、自分でそれ
をする気にはなりませんね。むろん、KOSAKA 氏が実施する
のは親切なことですばらしいとは思いますが。

>>  その、「ある部分」を他と分けるのは、コストのかかる話です
>> よ。それがどの程度のコストか分かりませんが、無意識にできる
>> レベルでは無いと思いますし、それであれば私はの手間を惜しい
>> と思います。
>
>対話可能ってのは、
>・日本語として解釈可能である
>・論点の構成もしくは保持を目指してると推測できる
>というぐらいのことを言ってます。
>純粋な情緒モードではなく、かつ、何か主張しようとする姿勢の見られる文章
>のことですね。
>
>その記事を題材に何か述べようとするのなら、その程度のことは判断しとかな
>いと無理な場合が多いでしょう。

 二項目挙がっていますが、第一項の日本語として解釈でき
るという話は、いくら馬鹿の言でも大前提です。解釈できな
かったら、「日本語を書いてください」くらいしか、言えま
せん。ですから、そのレベルでは、私も区分することには同
意します。実際、しています。

 が、第二項の「推測」は、私のスタンスでは無意味である
ことは、自明でしょう。馬鹿本人が何かを主張したいのだと
しても、馬鹿の言からそれを正しく汲み取ることはできない
というのが馬鹿の定義です。従って、そんな推測は意味の無
い話です。
 そんな推測をすることは、私の妄想の表出に他なりません
から、そんな真似を議論の場でするのは、まさに馬鹿な行為
です。

>>  「ということにしたいのですね」ですら、日本語文法的にはフォ
>> ロー元の記事の著者に向けたメッセージとして受取ることしか選
>> 択肢が無いと思ってはいけません。
>
>可能性の問題ではなく尤度の問題とすれば、大抵の場合、「ということにした
>いのですね」というのは元記事投稿者に対する確認の意味に解釈されるのが普
>通でしょう。

 そこだけ切り出して論じても仕方ないでしょう。
 「ときおり明示的にそれを否定」とセットで読解すること
が大切です。

>>  更に、私はときおり明示的にそれを否定しています。今回のス
>> レッドもその一環です。
>
>何度も明示的に否定するよりは、一般読者に向けたメッセージだという解釈を
>されやすい表現を選んだ方がコストがかからないでしょう。

 それは、KOSAKA 氏の感性ですね。
 私はそうは感じていないということです。

>私なら、「ということにしたいようです」とか「ということにしたいのだろう
>なあ」とか「ということにしたいらしい」とか、その手の表現を選ぶでしょう
>ね。そういう表現だと元記事投稿者への確認とはとられにくい。

 これは、事例の蓄積というものの効果を無視した議論です
ね。もしくは、事例の蓄積というものの価値を KOSAKA 氏が
認めていないか。

 前者だとしたら、蓄積というものを踏まえればそのような
結論にならずに済むでしょう。
 後者だとしたら、これは感性の問題です。

># なおかつ、それに対する反応で、元記事投稿者がどの程度のことを考えてる
># かをある程度推測できる。

 ここは、パーフェクトに感性の問題です。
 実際問題、私は「ということにしたいのですね」というフ
レーズへの対応で、元記事投稿者がどの程度のことを考えて
るかをある程度推測できます。

# 何も考えていないことが確認できるケースが多いのですが。

>>  従って、「不思議じゃない」というレベルの主張であればそれ
>> が可能であることは首肯しますが、各論としての読解においての
>> 際に「相手にする」は、正しくありません。
>
>頼光さんの意図に反して「相手にする」と元記事投稿者や一般読者に解釈され
>やすいのは、意図を最もよく表わす表現になってないからじゃないですか?

 残念ながら、違います。

 そもそも、前提である「されやすい」とできる根拠は、ど
こにあるのでしょう?

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頼光 mailto:raikou@mug.biglobe.ne.jp
関心・専門分野:
 宗教学、歴史学、社会学、情報工学