hidesanさんの<3ee66f6d.968%h@itfrontier.com>から
>wackyさんが<3ed6a58e$0$3091$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>でお書きになりました。
>>hidesanさんの<3ed4c7f6.963%h@itfrontier.com>から
>>>この対象となる行為は「許容されるからやって良い」という物では
>>>ありませんよね、結果としての迷惑が許容されたのであって、行為
>>>の正当性が評価されたわけではないでしょう。
>>
>>「結果としての迷惑」への評価として「許容される」があり、それによって行
>>為が正当化されるものと考えます。
>
>行為の結果が許容される事が、行為の正当化に短絡していませんか?
>また、許容されるか否かは周囲の判断によるものですよね。

個々のケースについて個別に考えるのならば、ある個人が「許容する」のは他
の個人に迷惑を掛けられた結果に対するものですから、その行為を行う前に
「正当化される」と考えるのはオカシナ話です。
が、しかし、私がここで言っているのは「社会的見地からどうか」ということ
ですし、想定しているのも「未だかつて誰も行ったことがない行為」ではなく
極一般に見られる行為についてです。このような場合に於いては「行為を行う
時点で正当化されている」という考えは充分に根拠を持つものと思います。
#個々のケースにおいては「スピード出したって事故るとは限んないじゃん」
#でも、社会的見地に立てば「スピード超過による事故は確実におきている」
#わけです。


>「許容されて当たり前」になってはいけないでしょう。

ここで「許容されて当たり前」と「当然許容される」の違いを争うつもりはあ
りません。おそらく、これも視点を個々のケースに置くか社会的見地に置くか
の違いであろうと思います。


>確かに「最後の一瞬」において
>「この行為の結果は許容されるから、仕方ない、やってしまえ」と考えた
>ことを「確信犯」といえばそのとおりですが、しかし、行為を行わない為の
>対策も考えないで該当の行為の正当性を主張してかつ行う事。すなわち
>「結果は許容されるが、本来は行うべきでないこと」を「やって良いこと」
>に位置付けて行えば批難されることはあるでしょう。許容されるか批難
>されるかが周囲の判断で行われる以上、行為者に結果に対する評価を決める
>権利はありませんね。(要望を抱くのは自由ですが)

評価を決めるのは行為者でも被行為者でもなく社会的見地です。
#確かに個々の行為において迷惑を感じるのは嫌煙者ではありますが、嫌煙者
#は「行為の正当性」や「迷惑の許容」に対する裁判官でも検事でも警察官で
#もない。と、私は思います。


<蛇足>

>fss的には「どうでもいい、俺に煙を吸わせるな」という判断?

私としては、そのような「他者の立場を省みることなく我利のみを押し通そう
とする主張」こそが最も責められるべきものであろうと思います。
#暴煙者の発想と変わりないと思う。

</蛇足>

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wacky