柏崎@北海道です。

# エイドリアン・ブロディを思い出すと、どうしても宮藤官九郎を思い
# 出してしまう。

At Sun, 30 Nov 2003 15:11:08 +0900,
Kiwi wrote:

> ご承知の通り、「ピアニスト映画」はここ十年ほどピアノ演奏そのもの
> の迫力を映画演出の要素に取り入れるようになってきていました。
> 
> そうした動きのひとつの頂点に立つのがこの「戦場のピアニスト」だと
> いう印象です。

エイドリアン・ブロディ演じるシュピルマンが演奏するのは、ショパンの
ノクターン等であって、そこにあるのは迫力かと考えると、それはどうだ
ろうかと疑問符が付きます。迫力というならば「シャイン」の方が強烈に
思えます。曲目もラフマニノフだし。

迫力というよりも、その演奏の高潔さというか、他の邪魔な物を一切拒絶
するかのような凄味が優れていると僕は感じていました。比較するべきは
「ピアノ・レッスン」あたりなのかなと。

> 淡々としていながら、身近な生活から非常にリアルな残酷さに変質して
> いく"ユダヤ人迫害"の状況描写もおぞましく、ナチスドイツの大量殺戮
> を描いた歴史作品としてもポリャンスキーは後世に名を残す仕事をした、
> と評しても大げさではないでしょう。

殺戮の残酷さに関して言えば、スピルバーグの作品群に勝るものではない
し、かといって残酷さの競争なんかをするのは論外で。

僕はこの作品の残酷さは、死を描かないところにあると思います。僕達に
とっての戦争のリアリティっていうのは、飛び交う銃弾の中で手足がもげ
たり、残酷な方法で虐殺する(される)事ではなくて、自分にとって最も
大切な人々が次々と「いなくなる」事ではないでしょうか。

この作品では、前半に出てくる家族や、中盤に出てくるシュピルマンを助
けてくれた人々が、後半において何の説明もなく「死んで」しまいます。
庵野秀明は「トップをねらえ !」や「不思議の海のナディア」「新世紀エ
ヴァンゲリオン」などで「死ぬシーンを見せない事による衝撃の倍増」と
いう効果を用いていますが、そういう演出上の(感動を倍増させるための)
テクニックではなく、観客が気付かない限り、死にっぱなしというほどに
突き放された残酷さがそこにある。

戦争のリアリティに関してもう一つ述べると(戦争の、というより敗戦の、
ですが)祖国の徹底的な荒廃、というか破壊による絶望というものが挙げ
られるんじゃないかと思います。後半に出てきた見渡す限りの瓦礫と化し
た街並みというのは、僕にとっては相当に衝撃でした。

さらにもう一つ、リアリティの素晴らしさとして述べたいのは、主人公が
「逃げるだけ」という点です。僕らは戦地で部隊を率いる負けなしの軍曹
でもなければ、大富豪でお金を湯水のように使って人々を助ける英雄でも
ない訳で、戦争状態という極限状態における僕達のリアリティというのは、
純粋に「ただ逃げ回る事しか出来ない事」なんじゃないかな、と。

> ともあれ、ロマン・ポリャンスキー、この作品で本当に映画史に名を残
> すとみました。また、CG全盛の映画シーンでCGの対局にあるこの動きは、
> ポストCG時代の本流となる感触を秘めているのではないでしょうか。

CGは使われてはいるけれどもその使い方が実に適切なんですよね。日本の
感覚に近いかもしれません。CGとは分からないようにそっと使う、という
感じで。まあこのごろの日本の映画でも、あからさまな使い方をしている
作品が多くありますけどね。

-- 
柏崎 礼生 (Hiroki Kashiwazaki)@HUIIC
Ph.D candidate in the Division of Electronics & Information
Engineering, Hokkaido University
mailto:reo@cc.hokudai.ac.jp
Tel:+81-11-706-2998