Yasuyuki Nagashima wrote:
> 長島です。
> 
> 私の理解では、憲法学ではまず
> 「憲法とは何か」という議論から始めているはずです。
> 
> なので、
> 
> In article <koabe-ABDEFF.01440314052005@news01.sakura.ne.jp>,
> ABE Keisuke <koabe@mars.sakura.ne.jp> wrote:
> 
> 
>>「憲法学」というのは、およそ宇宙におけるあらゆる
>>憲法において共通しているものなのですか?
> 
> 
> という問いは極めてナンセンスだと思います。
> 
> # 阿部さんちょっと熱くなってない?
> # ここ数日のfj.soc.lawへの投稿は、
> # およそ冷静にされたものとは思えないものです。
> # 少し間を置くとか、落ち着いたほうが…と思ったり。
> # (別のこと考えるとか…マリーンズも調子良いんだしさ:-))

ちがうんだよ、Ikedaくん。彼は、

>自分の気にくわない人間による表現だからといって、
>> >規制してはいけないというルールは、表現の自由の
>> >概念に含まれているのではないですか?

と疑問を投げかけているのは制限される立場に視点を置いての話なのだよ。どう
いう理屈(の違い)が妥当するにせよ制限される立場にとっては同じ事ではない
のか、というのが、彼の趣旨なわけです。

> 公権力がそれをやれば問題ですが

このような答えでは足りないわけです。続けて、

    何故公権力がそれをやれば問題であるのに私人が
    やれば何故問題ではなくなるの?

と言う疑問が続くはずのものなのです。つまりだ、「表現の自由」と言うのは
「表現する側」のことを考えてのものだろうに。その表現する側が不利益を受け
ると言う点では公権力によるのも私人によるのも同じことではないのかね?こう
主張したいわけさ。

この発想は法解釈する上では極めて重要なものなのです。したがって上手な説得
性のある説明方法が選択されなければならない。一説に言う、

    国家には人権がない、から、

と言うような答えでは実は足りないわけだ。この軽薄な答えは、一方人権主張者
と、他方人権主張者との「共存」の問題にのみ視点が行っていて他が見えない視
野狭窄に陥った見解なわけ。なんとなれば、

    国家(公権力)は自然人と違うのは当たり前、ゆえ
    に人権はない、しかし(公権力)には個人の人権と
    は違った民主主義をバックにした国家利益がある、

と答えられたらどうするの?結局同じことではないのかね?彼(阿部氏)の疑問は
決して軽はずみな疑問ではないのだよ。

    私人がやれば問題ないというのであれば国家権力が
    やっても問題ではないのでは?

と言うのが最終的な疑問なわけ。それが略された形になっている。そして、彼は

    それはおかしい、結局私人がやってもおかしい、

と主張しているわけだ。Ikedaくんは彼の意見へのアドバイスをするのであれば
以上のことを知った上で答えるほうがいいのではないのかな?

--
Golden Cross