飯塚(東京都)です。

""Shiro" <h9shiro@tky2.3web.ne.jp> wrote in message
<cifmha$2pem$1@usj.3web.ne.jp>...

> この頁の始めの方にある「戦闘詳報・陣中日誌などの日本側史料に基づ
>く、日本軍が集団虐殺した中国軍民の数」と言う表の始めの第16師団の
>12/13について、秦郁彦著「南京事件」の記述と比較してみました。
>
>◎歩兵36連隊について
> 第16師団には歩兵36連隊は存在しません。歩兵38連隊の間違いだと思
>うので以下歩兵38連隊とします。

 ここだけ合ってるねぇ。
 現物見たけど、このホームページが記述を間違ってるみたい。


>◎佐々木支隊について
> 佐々木支隊は歩兵38連隊と歩兵33連隊から成ります。従って佐々木支隊
>と歩兵38連隊・歩兵33連隊を同列に並べるのは変です。
> ◎部隊      殺害数      範疇
>  1中隊  1300      投降捕虜殺戮
>  部隊が「1中隊」となっていますが、この「1中隊」は歩兵33連隊の部隊つま
> り佐々木支隊の部隊です。佐々木支隊の部隊を別立てで数えるのは水増し
> だと思います。

 これは記述がありますね。

「後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけで処理せしもの
約一万五千、大平門(太平門)における守備の一中隊長が処理せし
もの約一三○○、その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人、
これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一
案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処(箇処)に誘きて
処理する予定なり」
(中島十六師団長日記」』中央公論社1984.12.25)

 読めばわかるとおり、佐々木部隊と1中隊を並列で書いてる。
 だから、数字が組み入れられてることは考えなくてよい。

 次に大平門・仙鶴門の守備を命じられていた両部隊に対して、
38連隊は堯化門の守備から長江へ、33連隊は下関から長江
の掃討を行っている。
 命令が違うから戦闘詳報が出ているわけで、佐々木部隊の
数に組み入れられていることは考えなくてよい。


>◎部隊      殺害数      範疇
> 歩兵38連隊  5000〜6000  長江渡江中殺戮
> 歩兵33連隊  約2000   〃
> 範疇が「長江渡江中殺戮」となっていますが、移動中の敵部隊を攻撃する事
>を虐殺とするのは水増しだと思います。

 戦闘詳報に
「午後三時三十分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子
江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下し
つつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の
敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」(南京事件
関係資料集2)

 既に「敗残兵」と自分で書いてる敵を攻撃してますね。


> 佐々木支隊 一万数千 敗残兵殺戮
> 範疇が「敗残兵殺戮」となっていますが、佐々木回想録では「この日我支隊
>の作戦区域内に遺棄された敵屍一万数千」です。どの様に死んだかを無視して
>敵屍を全て虐殺とするのは水増しだと思います。

 どんな状態だったかは、「中島十六師団長日記」にあります。

「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとな
したる(れ)ども、千、五千、一万の群集となればこれが武装を解除
することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付い
てくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末
にこまるので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三
日夕はトラックの大活躍を要したり」
「中島十六師団長日記」(中央公論社1984.12.25)

 最後に「13日夕」と日にちが入ってますね。
 内容を見ればわかるとおり、既に戦闘は終わり、投降兵の処分
になっています。

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 東京都 飯塚顕充