takehiro yanagiさんの<cc07ld$1e7t$1@news2.bekkoame.ne.jp>から
>>池田尚隆 2004.06.25 wrote:
>>私は、「既存の理論で**記述可能**な現実の運動を
>>記述できない運動論に価値はない」に同意していただけるのなら、
>>まだまだphysicsで続けてもいいと思っています。
>
>#問題は、その**旧来の記述法**が間違っているという議論だ。
>#旧来の記述法が間違っているか否かの検証は、旧来の記述法を
>#使って構築された旧来の理論ではできない。逆に、旧来の記述法を
>#否定するための新原理に対し、旧来の記述法を持ち出しても反論の
>#根拠にはならない。

この考え方がそもそも間違っています。
「旧来の記述法」を否定するためには、「旧来の記述法を用いて」矛盾を導く
必要があります。これは記述法内での矛盾でも記述法と現実の間の矛盾でもか
まいません。
「新しい記述法」を導入して「旧来の法則」の矛盾を導いたところで、この二
つが両立しないということを述べているだけです。

つまり
「旧来の記述法の否定」の否定は「旧来の記述法」で充分です。
私の主張のメインは「旧来の記述法の否定」は否定されるべきだという点で
す。

Yanagi氏の運動論の問題のもうひとつとして、「今、現に存在する運動」の記
述ができない点にあります。「旧来の記述法」でできたわけですから、新しい
記述法でできなければいけません。つまり、もうひとつの主張として、
「Yanagi運動論は現実を反映していない」と言えます。
そういう意味で、「Yanagi運動論は否定される」と主張しています。あるいは
修正されるべきだでもかまいませんが。(修正の結果Newton力学といっしょ
になるんだったら、意味はないですからね。)

>池田 2004.6.25 wrote:
>>私は、三体関係ってのはちゃんとガリレイの
>>相対性原理で**記述できます**よ、と主張しているわけです。
>>そこには、思考や相対関係の設定や時間の幅なんていうのは
>>必要としてない。
>
>その数学による**旧来の記述法**が正しいか、否か、
>を今、問題としているのである。

「旧来の記述法が矛盾しない限りは、旧来の記述法は正しい」です。
そこに「間違った」とする理由はありません。

>池田 2004.06.25 wrote:
>「『原理』は必要かつ最小限にするべき」だとナ…!!!  君は原理の重み
>を知っているのか、嘗めた口をきくな。物理学者は一生のうち、一つの
>原理でも提唱できればと思って血道をあげるのだ。その様にして提唱
>される原理はあらゆる角度から検証されていて、不必要なものなどない。
>だから、提唱された原理はすべて正しいと言うのではない。

不要なものは不要です。
原理というものは「説明したいものを説明するために導入するもの」であっ
て、説明したいものと関係のない原理はここで導入するべきではありません。
中性子の運動を記述するのに、パウリの原理やマックスウェル方程式を導入す
るべきではありません。中性子の運動と陽子の運動が違う となったときに、
初めてマックスウェル方程式を導入する理由が出てくるわけです。

>池田 2004.6.18 wrote:
>>これ以上、ちゃんとした答えが返ってこなかったら、この後は、
>>fj.sci.physicsではなく、fj.soc.pseudoscienceで議論します。
>
>「どの場で論争を行うべきか」ではなく、「どちらの主張が正しいか」
>である。結果、敗退した方が「fj.soc.pseudoscience」と呼ばれるのだ。
>そんなことも分からないのか!!!…  高飛車な、嘗めた口をきくな。

pseudo-scienceかscienceかというのは「主張されているものが正しいかどう
か」とは現実には関係ありません。誤った原理を持ち出していくつかの説明が
できても他の記述が失敗した」なんて場合でも、途中の計算が論理的であれ
ば充分scienceで議論するに値すると思う。

pseudo-scienceになるというのは、
・反証不可能性
・検証への消極的態度
・立証責任の転嫁
という三要素があるといわれています(ハインズ,『超科学をきる』,1995)。
私が書いた
「既存の理論で記述可能な現実の運動を記述できない運動論に価値はない」
というのは、検証への消極的態度、あるいは反証不可能性に触れるがために、
疑似科学であると主張しているわけです。

>嘗めた口をきくのは君の勝手だが、もし論破できない場合は、原理の
>重み相当の報復を受ける覚悟が必要(責任を問われる)というわけだ。
>勿論、真面目な対応であれば、間違った反論を行っても一向に構わない。

現実に何かをきちんと記述しようという態度が見られない限りは
「検証への消極的態度」から疑似科学と断定することにします。

でだ。なぜ具体的に記述しないのですか?
極端な話をしてしまえば
「具体的に記述しなければ『あきらかな間違い』は出ないので間違っていると
は言われない」という逃げにも見えるわけです。

>池田 2004.6.25 wrote:
>>まず第一に語っておきたいのですが、私はあんまり科学哲学には
>>興味がなくて…
>
>論文を読めば内容が分かるのだから、興味がなければ始めから口を出すな。
>矛盾を指摘されて不利になれば「興味がない」と言い出すなど、嘗めた
>口をきくにも程がある。
>それから、君が科学哲学に興味を持とうが、持たまいが、根元的な議論に
>遡っていけば、物理学も数学も、もとは「君の言う科学哲学」に行き着く
>のである。君は、この程度の知識も持たず論争に挑んできたのか?!

「あなたの導入した科学哲学が正しい」という主張をするのならば、まあ、そ
の知識は必要でしょうが、否定する場合は反例をひとつあげてやればいいだけ
の話なので、そんなに知識は必要ではありません。

>我々 wrote:
>#c】時間の性質を知らなければならない。幅のある時間は、
>#幅のない時刻との相互定義で成り立つことが分かる。
>#従って、時間は、ある時刻と次の時刻の間で規定される。
>
>池田 2004.6.4 wrote:
>>時間の幅を極端に短くする-(極限)->時刻とすれば…
>
>池田 2004.5.24 wrote:
>>時間は時刻の積分だし、時刻は時間を微分したものに過ぎません。
>
>池田 2004.6.15 wrote:
>>時刻に幅がないのは当たり前なので、別に「幅が無い」と
>>わざわざ書く必要はありません。
>
>池田 2004.5.20 wrote:
>>結局のところ「同時にものがあって」という
>>いわゆるニュートン力学的関係っていうのは、
>>「運動で扱う時間のΔtに比べて観測のための光の時間が
>>極小である(0とみなす)」っていうだけの話だと思う。これを
>>極小だから0とみなすっていうのを矛盾といわれたら困るなぁ。
>
>池田 2004.6.14 wrote:
>>本質的には時間の方は時刻の定義なしに定義可能(だと思う)。
>
>池田 2004.6.4 wrote:
>>本質的には時間の定義があって、
>>時刻は時間を距離としたスカラ量として定義できるでしょう。
>
>#時計は、現時点の時刻だけを指すものであって、過去の時刻を
>#指すことなど出来るわけがない。
>#当然、時間は人間が、時計が現時点の時刻を指しているとき、
>#過去に指した時刻を覚えておいて、両者を一度に考えることから
>#成り立つ概念である。

あなたは「時計」と書いたときに今身の回りにある時計のイメージに囚われす
ぎています。
C14による年代測定というのも「時計」です。
これ、最初にわかるのは、「Cの交換が停止してからの時間」
であって、そこから今の時刻を原点として、「Cの交換が停止した時刻」を計
算しているわけです。

>#時間の幅というものは過去から現時点にまたがるものであって、
>#この問題は科学哲学の興味が有る無しに拘らず、避けて通れない
>#事実である。又、時間や時刻の幅に関する新原理が提出されれば、
>#その幅を考慮していない旧来の記述法が見直しを迫られるのは、
>#必然的である。

時刻に幅なんてあるわけないじゃないですか。
こんな話は前世紀の内にとっくに終わったものだと思ってましたが。

もっとも、ビッグバン直後の時空とかについてはまだ議論は続いていますが。
今は、そんな話じゃなくて、現在の宇宙での話ですよね。


>池田 2004.6.18 wrote:
>>また、人間が確実にいなかったとわかっている時代から現在までの間で
>>かなり正確に計測する方法があるので、「時間」の存在も人間に依存
>>しないことがわかります(物理的事象で時間が測定できる)。
>
>これ、本気で、正直、実際、真面目に、「時間」と呼ばれている
>概念の話をしているの!???

そうです。あなたは無自覚に例を挙げるときに使ってましたよ。

あんまり踏み込むと科学のともなわない哲学になりそうですが。
観測原理を物理に持ち込むのは私は感心しない。

-- 
Yoshitaka Ikeda mailto:ikeda@4bn.ne.jp