まあ、「再定義」とやらを取り下げて、「義務」と「責任」を普通の意味で使っ
てくれくれるのなら、元の話題に戻れるわけだが。

! "<40871111$0$19831$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
!     Thu, 22 Apr 2004 09:25:54 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:

> KGK == Keiji KOSAKAさんの<c5r2nm$vn2$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> ! "<4057a0d4$0$19850$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
>> !     Wed, 17 Mar 2004 09:50:58 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:
>> 
>>> KGK == Keiji KOSAKAさんの<c33v17$90l$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>>> 排他的に定義したあげく、カバーできない部分ができるとしょうがないでしょ。
>> 
>>> 何処に「カバーできない部分」なんてものが出来るんでしょうか?
>>> 具体的に述べられますか?
>> 
>> 述べてるでしょ?

> そのような記憶は全くありませんが?もし仮に万が一それが真実であるのなら
> 具体的に述べていただきたいものです。

もちろん、
>>>> 例えば、通常の意味での「自分の行動に責任を持つ」というのは、wacky氏の
>>>> 定義だと、「行動の際にまずい結果が出ないように努力する義務がある」と
>>>> 「出た結果に責任を持つ」の二つに分けなきゃ説明できないでしょ?
といった部分ですね。

> そもそも「辞書通りの意味では義務と責任の意味が重なって*都合によってど
> ちらとでも言える*状況が生じてしまう」ので、それを排除する為に再定義し
> たのですよ。

何故排除しなきゃいけないんでしょう?
それは、社会的問題でよく出てくる「自分の行動に責任を持つ」という言い方
が使えなくなることを超えるメリットがあるんですか?

>>> 「義務」と「責任」の話ですよね?何か摩り替えていませんか?
>> 
>> wacky氏の定義は、「義務は行為にかかり、責任は結果にかかる」じゃなかっ
>> たんですか?

> だからそれは「一般的には「責任」を「義務」の意味で使用することはありま
> すが、議論として区別する以上は」でしょ。「wackyの再定義を受け入れるな
> らば」という前提を無視して、

だから「wackyの再定義を受け入れるならば」という話をしてるでしょ?
その再定義から、

>>>>> KGK氏の説明とやらでは「最初から持っている部分」と「後から他者に課す
>>>>> (ために自ら根拠を示さなければならない)部分」が曖昧模糊としていて、都合
>>>>> によって切り替えることもできそうですし、どうやら実際に切り替えているよ
>>>>> うに思えます。

という区別を導けると主張してるわけでしょ?
で、どのように導くんですか?

それに対する感想が、

>>>> 対象が結果か行動かという区別だけで自然発生するような区別じゃないように
>>>> 思えるけど。

というものなんだから、何も変な話してないよね?

# まさか、「責任は結果にかかる」と「責任がかかる対象は結果である」は違
# うって言ってる?

> そして勿論、辞書的な意味に基づけば、「義務は結果(既に起こってしまった
> 事)にかかりようが無いけど、責任が行為にかかったって別に構わない」し、
> 実際にもそういうことがあるでしょう。

で、どっちの意味で使うんです?
多分、辞書的な意味で使う方が便利だと思うけど。

>>>> そうじゃなきゃ、「行動するときは何も気をつけなくても、あとで責任さえ取
>>>> りゃいいんだろ?」ってことになる。
>> 
>>> 当然、その類の行為もあるわけです。
>> 
>> 例えばどんな行為ですか?

> そうですねぇ。^_^;
> 「会社のボールペンをうっかり持って帰ってしまった」とか「ボーっと歩いて
> たら止めてあった自転車にぶつかって倒しちゃった」とか、あまたある些細な
> 事柄達がそうですね。

そういう些細なことであれば、再発を防止しようとしなくてよいと、こう言う
わけですね。
# 自転車を倒されると、不可逆な破損がしばしばあるから、再発は是非防止し
# て欲しいものだが。

> もう少し大事になると「ある程度気をつけて結果には責
> 任を持つ」、原発の管理運営のような重大事なら「何が何でも悪い結果を招か
> ないようにする義務を負う」となるでしょう。

そういう種類の行為がありながら、「責任は結果にかかるものであって行為に
かかるものではない」と定義しようとしたんですね?
議論するのに不便だと思いませんか?

>>> 不便だろうと何だろうと実際に別けられるんだから別けなきゃしょうがない。
>> 
>> 「分けることが可能」であることと、「分けなきゃ表現できない」ということ
>> の間には56億7千万光年ほどへだたりがあるわけですが、それを同一視する理
>> 由はなんでしょう?

> 「それは義務の話だ」「いや責任だ」なんて混ぜっ返しを防ぐことができた
> り、議論中は責任で結論だけ突然義務になってしまうような摩り替えを防ぐこ
> とが出来る点が便利だからですね。

便利な点があるから「別けなきゃしょうがない」んですか?
普通に考えれば、便利な点があるってだけなら「分けた方が便利」ってだけの
話でしょ?

で、それが義務なのか責任なのかで結果の意味内容が変わるような話なら分け
た方が便利かもしれないけど、義務か責任かで意味内容が変わるような話なら、
そもそも義務とも責任とも言えるような話じゃないでしょ?

> #摩り替えたい人以外は誰も困らないと思うけど?

分けなきゃ表現できないってのは不便のうちに入らないと?

>>> ただ、別け方が変な気がするな。
>>> 「結果に責任を持つ」ってのは当たり前の話なのでそうでない行為は殆どあり
>>> ません。
>>> 1.結果に責任を持つ
>>> 2.1の上に更に行動にも責任を持つ
>>> という別け方が正しいでしょう。
>> 
>> まあ、「行動に責任を持つ」という言い方をwacky氏が許容するのなら、この
>> スレッドは始まってないわけで。

> 「再定義」という前提を無視して

無視してないでしょ?
「再定義」という前提があれば、「行動に責任を持つ」という表現ができなく
なるから、「再定義」なんてやめといたらどやねんってのが、このスレッドで
の私の主張なわけ。
-- 
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK