てつたろです。

長くなってきたので原点回帰の意味を込め、
話を整理するために一部順序を変えて
2部構成にしています。
それぞれに(幾分主観的な)サマリ付き。

"iizuka" <iizuka@comp.metro-u.ac> wrote in message
news:bvb12e$jgk$1@swallow.comp.metro-u.ac.jp...

・ノベルゲームの位置づけ
 ノベルゲームは小説・コミック・アニメに近いものか
 STGやアクションゲームに近いものか
 (「ノベルゲームをコミックや小説のように楽しみたい」
 に対して「ゲームとコミックは別ジャンル」という話
 から派生)

自説のまとめ
メディアミックスしている作品"A"全体を縦軸方向に
並行な直線上におき、ゲーム、小説、コミック、アニメ
の区分を縦軸の目盛と見なしたとき、ノベルゲームの
"A"という作品とアニメの"A"という作品間のベクトル
は、ノベルゲームの"A"とSTGの"B"間のベクトルより近い。

> > 例えば、「君望」はもともとノベルゲームですが、
> > 「小説」化も「アニメ」化もされていますし、「コミック」化だって
> > 可能でしょう。(アンソロジーならあるようですし)
>
>  そりゃたまたま他のメディアに、「君望」が進出しただけで、「ノベ
> ルゲーム」として一般化はできないでしょう。
>  それに、「君望」はAVGだと思うんですが。ノベルゲームって言う
> と、通常「痕」とか「雫」とか「月姫」とかを指すんじゃないですか?

え、「君望」って「痕」とか「雫」とか「月姫」とかと、
同じ分類だと思っていました。
やったことのないゲームを引きあいに出したのが拙かった
かなぁ。

確かに制作者は「恋愛AVG」と銘打っていますが、実際に
「ノベルゲーム」とは呼べない内容なんでしょうか。
「ノベルゲーム」は「AVG」から派生した分類だし、「AVG」
の部分集合という見方もできますが、「ノベルゲームではない」
と飯塚さんが判断された根拠はなんでしょう?
あくまで参考意見としてお伺いしたいです。 m(_ _)m

> > でも、「君望」のストーリーをシューティングで表現するのは
> > 無理でしょう。
>
>  AVGの「君望」のストーリーを表現をできるのは、AVGの「君
> 望」だけでしょうね。

アニメ版「君望」はゲーム版「君望」のストーリーに
準拠して作られていると認識していましたが。
アニメ版「君望」をみて「あんなものは『君望』じゃない」
と思われたとか。

やってもいないゲームで話を続けるのは拙いので、
例えば「痕」というノベルゲームに切り換えさせて下さい。

私が「痕」をプレイするきっかけは小説を読んで面白いと
思ったからです。
この時、「小説は小説、ゲームとは別だから」なんて考え
もしませんでした。
そしてその期待は裏切られませんでしたよ。

「痕」という縦線上には対戦格闘ゲームもあるけれど、
対戦格闘ゲームをプレイした時の印象と、ノベルゲームを
プレイしたときの印象はまるで異なります。(当然)
対戦格闘をやったからノベルゲームに手を出そうと思った
かどうかは分かりませんが、「小説」を読んだときと同じ
動機にはならないでしょう。

>  つまり隔たっているのは、ストーリーの再現性ですか?
>  なるほど。
>  しかしストーリーというのは、ゲームの要素の一部です。 根
> 本的な問題として、ゲームにもっとも必要な要素は、ストーリー
> ではありません。
>  ゲームのもっとも特徴的なことは、インタラクティブ、プレイヤ
> ーの操作に対する応答でしょう。簡単に言うとプレイヤーが操
> 作できること。
>  主人公の投影型が支配的なのも、ここから来ているんですから。

なるほど。
「ゲーム」であることに重点をおけばそういう考え方に
なることが理解できました。
私は「ノベルゲーム」では「ノベル」に重点を置きます。
インタラクティブ性や応答性より、ストーリーやキャラクター
の魅力的で購入するノベルゲームを選択します。

例えば、私は「ゲーム」という点では最低評価の「化粧桜」
を「ストーリー」の面から評価している訳です。

>  で、壁が薄いのも同じくストーリーの再現性ということですかね。
>  なるほど。
>  しかし上記のように、ゲームの特徴は他のメディアと大きく違
> います。また他のメディアもストーリーの再現性で一くくりにする
> のが正しいとは思いません。
>  特に小説と他のメディアは、ゲームと同じくらい離れてると思
> いますけどね。

色々な座標軸があり、見る角度によって距離は変わります。
元々がノベルゲームというストーリー性の高いゲームに
於ける主人公(男)の扱いが発端なので、今はストーリー性の
座標を基準に考えています。

例えば、私は「ゲーム」という点では最低評価の「化粧桜」
を「ストーリー」の面から評価している訳です。

小説とコミックより、小説とノベルゲームの方がより離れて
いる、とは思います。
その距離を「近い」と感じるか「遠い」と感じるかは主観
と相対比較に依るのでしょう。

「ゲーム性」の座標軸で考えれば、確かに小説には読者が
作品世界に介入する要素は0ですから、「乖離している」
という見方が出来るのは理解できました。

> > >  どんなノベルゲームも、やはり電子小説とは違う。なぜ違うの
> > > か、てつたろうさんはもちろんわかりますよね?
> >
> > 「ゲーム」ですからね。
>
>  プレイヤーが操作できるというのが、最も大きな違いです。

そうですね。
飯塚さんがその点に拘りをお持ちなのも、ようやく理解
できました。

私なら「ノベルゲームと電子小説は非常に近い」と
見ますが、その見地を飯塚さんに押し付けるのは意味が
ありませんね。
押しつけはしませんが、こんな見方があるということは
ご理解頂ければ幸いです。

(ゲームブック:小説のノベルゲーム(orAVG)的試みの話)
>  根付かなかった点からみても、無理があったんですよ。

そうですね。
「桃電」を本物のボードゲームで実現しようとする
ようなものかも知れない。
それでも仮に「桃電」を目指して作られたものなら
「桃電」だし、「桃電」という縦線に位置する作品
と評価します。

>  それを隔たってないと言っても、じゃあなんで廃れたの? と
> 問われて答えられないじゃないですか。

「隔たっていない」と「廃れない」の因果関係に
答を求めるのは意味がないです。
「隔たっている、ならば、廃れる」の対偶は
「廃れない、ならば、隔たっていない」ですよ。

> > 小説でもアニメでも、ゲームでも、「君望」は「君望」ですよ。
> > 少なくとも同じ主人公、同じヒロインがでてます。
>
>  たまたま他のメディアに移植されたから語れるというだけ
> のことだと思うのですが。そうでないゲームが圧倒的多数を
> 占めるのですけど。AVGやノベルゲームに限っても状況は
> 変わらないと思うのですが。

「メディアミックスで展開された作品を同じ縦軸上の
作品として捉えることができるかどうか」が論点だった
と思いますので、ゲーム全体で捉えようとすることこそ、
そもそもの母集団が違います。
それに、「ノベルゲームと他のメディアの比較」なので、
少なくともここではノベルゲームに限って貰えないと
話が出来ません。
この辺も視点がずれているせいだとは思いますが、
議論の元である私の視点をご理解頂けないなら、話が
進みません。

私は飯塚さんの視点を理解し、「そういう見方もある」
と納得できたので、こちらの話を終わらせるのは一向に
構いませんが、もし飯塚さんが納得されたいなら、私の
視点もご理解下さい。
(とりあえず、私の視点での話を続けます)

>  で、同じキャラクターが出てくるというのが、縦線の根本要素
> なんですか?
>  ストーリーじゃなくて?
>  上で壁が薄いとか、隔たってるというのはストーリーのこと
> だと思っていたのですが、違うのですが?

違いませんよ、おそらくは。
(視点の違いが大き過ぎるので、同じように見える角度があっても、
同じものを見ていない可能性はありますが)

当然ですが、キャラクターが変わればストーリーはまったく
異なったものになります。
同じキャラクターがでて、同じ個性をもって活動するのが、
同じストーリー(注)であることの基本です。

注:「ノベルゲームのストーリーを忠実に再現」という意味
  ではありませんよ

> > 「主人公にも顔や声がついている方がもっとおもしろくなるのに」
> > と考えているユーザがいる、ということです。
>
>  その面白くなるのに、というのはまず「ゲームとして」であって、
> 他メディアのことは2の次なわけです。
>  他メディアで「ユーザが何を感じようが知ったことではない」の
> は当然だと思いますけどね。ゲームが面白くて、他メディアに進
> 出したら、それは「おまけ」みたいなもんでしょう。

「ゲーム」視点の飯塚さんらしい見方で興味深いです。
私は、派生元がどこでもそれぞれの作品は対等と考えます。
アニメや小説から派生したゲームは「おまけ」ですか?
「.Hack」はアニメとゲームでどちらが「おまけ」?

「アニメ化」しなくても「アニメ的表現」を意識している
作品は多いですね。
これはライトノベルの世界で顕著ですが、ライトノベル
なら挿絵に主人公の顔がまったく出ない作品に憶えが
ありません。
同様にアニメ的表現をとり「他者型」(と限定しましょう)
のノベルゲームであり、ヒロインの顔や声がある作品で、
主人公にだけ顔や声がないのはどうも違和感を感じます。
それがアニメ化された時に、「えー、こいつはこんな顔
だったんだ。ああ、やっぱり最初から顔が欲しかったな」
と感じた、という「結果論」です。
(アニメ化の為の顔、ではありません)

逆に「弟切草」のように全員の顔がでないのであれば、
違和感なく作品に入り込めます。
もし、あれがアニメ化されて主人公達に顔が付いても、
おそらくは「へぇ、こんな顔なんだ」と思うだけでしょう。

また、実写化であれば、ゲームに於けるヒロインの顔も
無意味になり、全員がリアルの役者になりますから、
主人公とヒロインの扱いは対等です。
(違和感の有無は実際に見てみないと分かりませんが)

この違いはご理解頂けますか?



・「投影型」と「他者型」
 ゲームの歴史的には、主人公はプレイヤーの「駒」であり、
 同一化出来る「投影型」が主流。
 「投影型」では主人公のキャラクター性は不要。
 つまり顔は要らない。
 主人公に感情移入するタイプの「他者型」は後発で傍流。
 「他者型」では主人公のキャラクター性が重要。
 その中に主人公の「顔」も含まれる。

 では「主人公の顔がない」ノベルゲームは「投影型」か。

自論のまとめ
 「投影型」ゲームであれば、主人公の顔出しに拘りはない。
 ノベルゲームの主人公の顔に拘る理由は、ノベルゲームが
 まさに「他者型」であると思うが故。
 なぜなら、ノベルゲームの主役はプレイヤーの思惑を越えて
 行動するキャラクター性があるから。

>  ゲームの本質を考えると、投影型が多数を占める状況は
> 変わらないでしょう。
>  で、てつたろうさんが切り替えることが出来るなら、ノベル
> ゲームであろうとAVGであろうと、投影型のゲームなら投影
> 型に。他者型なら他者型に切り替えて遊べば、いいのでは
> ないでしょうか?

ここで、飯塚さんの仰る「切替」とは何でしょうか。

少なくとも、ノベルゲーム以外で「顔出し」に拘ることは
まずないのですが。
レーシングゲームのような操縦系のゲームを「他者型」で
プレイする人はいないでしょうし。
(という意味で使ってますか?)

ただし、ことノベルゲームに関しては、基本的に「他者型」
だろうと考えています。(詳細な理由は後述します)

(自分の顔を貼り付けるゲームを想定する)
> > > > >  なぜアクションゲームでオッケーなのか理由を話してもらえると。
> > > > >  実際面白かったわけですよね?

(中略)

>  自分の顔を貼り付けることにこだわっておられるようですが、
> 自分の駒であると認識するのに、いちいち顔を貼り付ける必
> 要はないはずなんですけど。
>  てつたろうさんがアクションゲームで面白かったのは、「顔が
> 貼り付けられた」からなのですか?
>  逆に「顔を貼り付けられない」アクションゲームは面白くない?

「投影」の象徴として「自顔の貼り付け」を持ち出した
だけですので、むしろ拘られないようお願いします。^_^;
「自顔を貼り付けたとしても違和感がない=オッケー」
ぐらいに捉えて貰うのがよろしいかと。

(実際、顔を貼り付けた事による面白さはありましたが、
これも本筋とは関係ないので割愛します)

話が本筋から逸れてきたので「自顔貼り付け」の話は
終わらせましょう。 m(_ _)m

> > ノベルゲームだと、「よせ、やめろ、そんなことはするんじゃ
> >ない」ということを勝手にやってくれたりします。それにプレイ
> > ヤーは干渉できない、というよりそのもどかしさを含めて楽
> > しんでいるはずです。
>
> 「よせ、やめろ、そんなことはするんじゃない」
>  と思うようなゲーム自体、物凄く少ないと思うのですが。(^^;)

「よせ、やめろ、そんなことはするんじゃない」とか、
「ああーやってくれたよ」とか、
「こらー、この選択肢を選んだのはお前にそんな事を
言わせる為じゃない」等、
プレイヤーの意図しない展開に進むことは、ことノベル
ゲームに於いては極めて普遍的なことだと思いますが。
 @o@

(私が「よせ〜」をゲーム一般を対象に書いたと誤解
されてはいませんよね)

>  さらにそういう操作できないストレスを楽しむというのも、ゲ
> ームのプレイヤー中、多数を占めると思えません。
>  とても一般化できる事例ではないと思います。

ノベルゲームのストーリーに求めるのは意外性だと
思いますが。
思わぬ展開を楽しめないのでは、何のためにノベル
ゲームをプレイするのでしょう?
先の展開がミエミエなノベルゲームをやっていると、
眠気が襲ってきます。

>  ノベルゲームでそういう事態が発生するとしたら、投影型を
> 狙って作られたゲームでは、できるだけ主人公と同じく悩んだ
> り、苦労したりという感情を理解して欲しいという目的でしょう。

それって飯塚さんが「他者型」の特徴として挙げられた
「感情移入」でしょう。
「投影型」なら、プレイヤーの感情に主人公が合わせて
くれなければ。
(「怒る」という選択肢を選ぶとか)

>  辛い状況にある主人公に、なんだそりゃと引かれたり、あはは
> バカだコイツと笑われるのは、目的から離れるわけで、それを
> より回避できる投影型を選ぶのは、1つの選択だと思います。

実際、それを回避出来るノベルゲームにはお目に掛かった
事がない。

制作者の目的から離れる、
というか、完成した後の作品をどう捉えるかは、
プレイヤー(小説等なら読者)の主観であり、自由です。

もちろん、「ああ、制作者の言いたかったことは
これなんだ!」と感じることはプレイヤーの、そして
おそらくは制作者の幸せでしょうが、それすら本当に
制作者の意図と一致しているかは分かりませんし、
ずれていても一向に構わないと思っています。

著作物が著作者のものであるのは著作中だけであり、
完成した段階から著作者の手を離れて一人歩きします。
(ちょっと話が脱線しすぎ?)

> > > > メンコや、ビー玉、独楽、凧、等もゲームの「駒」ですね。

> > >  テレビゲーム、ビデオゲームと言われるものは、メンコやビー玉
> > > を元祖に持つわけではありませんから、同じ意味合いになるとは
> > > 限りません。

> > おや、それでは飯塚さんがおっしゃる「駒」とはなんだろう?

>  ですから、「自機=プレイヤー」とわかる「記号」ですよ。
>  ゲームに参加するため「物」じゃないでしょう。

ゲームに自己を投影するための「形あるもの」なんですよね。
それは、メンコでもビー玉でも同じと思いますが。

対戦ゲームのアニメ化で、カードとか独楽を生き物のように
描くのは「自分の分身」であるからだと思います。

> > 主人公のキャラクターを希薄にしてプレイヤーとの一体化
> > を図るのが「投影型」と思っていましたが、違いましたか?
>
>  まずわかりやすい特徴が、顔ですからね。
>  好みじゃない顔なら、投影するのに邪魔になるわけですし。

では、上記の定義は「概ね」間違っていない、と。
次に、
「ノベルゲームにおける主人公のキャラクターは希薄か」
という問題ですが、今まで述べてきたように、ノベルゲーム
に関しては登場人物のキャラクターこそ命だと考えています。
「怒れ」「泣け」「笑え」と命令しなくても感情を表現する
主人公に対するプレイヤー(私)の接し方は、それこそ小説の
主人公に対する読者(私)の接し方に近いです。
(もちろん、選択肢はありますから、イコールではありません
が、ビックバイパーに対する接し方よりは近いです)

> > 主人公に女性を据えたノベルゲームでヒロインの顔が
> > ないものってありましたっけ。
>
>  それはターゲットにする層の問題が大きいと思いますね。
>  女性向のゲームはしっかり男の顔を、これでもかと描くわけですから。

その場合の男は「主人公」じゃないですよ。

> > つまり、実際の処「男の顔なんていらん」と考えている
> > ソフトハウスが多いだけではないかと思うのですが。

>  もちろんそう考えているソフトメーカーもあるでしょうが、基本的に
> はゲームの歴史とその特徴からの判断でしょう。

では、主人公(男)の顔が描かれない理由は
「ターゲットにする層の問題」と
「ゲームの歴史とその特徴からの判断」で
どちらがより大きいとお考えでしょうか。
ちなみに私はの意見は「前者」だと思います。

前者であれば、ゲームが「投影型」が「他者型」かの判断は
軽視されていると思われます。

> > > 「面白い」「つまらない」は個人の趣向の問題です。
> >
> > 「私個人という1ユーザの趣向として、ノベルゲームの主人公
> > の扱いに不満あり」
> > という主張で書いてきました。
>
>  だから「主人公の扱い」という「構造上の問題がある」というの
> が主張でしょ?
>  単に無個性の主人公が嫌いというなら、主人公に個性のある
> ゲームだけやってなさいというだけの話です。

料理がまずければ喰うな。
一々「不味い不味い」と騒ぐんじゃない。
と仰りたい?

>  構造上の問題というなら、それはゲームの歴史と特徴理解す
> れば、なぜそうなっているのか理解できる、と話しているわけです。

飯塚さんの話は「歴史の講義」だったのですか。
であれば、もう1点、私との視点の違いが分かりました。

はい、過去の歴史と現状がそうであるということを否定
する材料も、また、その意図もまったくありません。

ただし、私の視点は「今後どうあって欲しいか」です。
それは、多分に主観と嗜好に基づきます。

「いやならやるな」と言われるとおり、まったく嗜好に
合わないことが端から分かっていれば手を付けないだけ
の話です。
飯塚さんだって嗜好に合わないゲームはやりませんよね。

問題は、「概ね美味しいけど、ひと味足りない」場合。
出来ればもっと美味しく食べたいじゃないですか。
問題は料理と違って後で香辛料を追加できない処です。
(なかにはスイッチを持つものもあり、河野先生の
「顔スイッチ」案もその解決策の一つだと思います)

> > > 個性のある主人公とは、たとえばどのソフトのことを言っている
> > > のですか?
> >
> > 最初に「GLO・RI・A 禁断の血族」と「化粧桜」を例に挙げましたが?
> > 更に上にも、「ノベルゲームで無個性の主人公は居ない」とも
> > 書きました。ノベルゲームの主人公は僅かな選択肢の他は
> > Enterキー一つで勝手に動きます。それこそ、個性なしには動き
> > ようがありません。
>
>  GLO・RI・Aはわずかな選択肢だけで遊べないゲームなんですけ
> どね。あれは、フラグの管理を好感度の重量制でやってて、エンデ
> ィングにいくつか複数のルートがあるわけです。
>  Enter1つでは済まない思考を要求されるようにできているんです
> よ。

飯塚さんの「ゲーム」への拘りがよく分かります。^_^;

GLO・RI・Aほ「顔が出ている個性的な主人公」の
例であり、「典型的なノベルゲーム」の例ではありません。
何しろ典型的なノベルゲームには主人公の顔=個性の一部
が欠けている訳ですから。
(書き方が紛らわしかったのかも)

完全な「投影型」とは、主人公の行動に影響を与えうる
外部要因に対する全ての意識的行動をコントロール出来る
ものと考えます。(理論上だけの存在ですが)
そこから、外因に対する主人公の行動が、主人公自身の
判断に委ねられる割合が多くなるほど「他者型」にシフト
するのではないでしょうか。私の理解ですが。
(完全な「他者型」は電子小説になってしまします)

更にいうと、選択肢を選んだ直後の主人公の行動も、
プレイヤーの意図したものと同じである保証はないので、
乖離性は選択肢の割合以上になります。
#綺羅みたいな行動、私にゃとてもとれません。*-_-*
#故に選択肢が多くても、綺羅は「他者」です。
#顔もあるし。(あれ、声もあったっけ?)

例えば、主人公の丸一日の行動に選択肢がない場合、
それでも「投影型」足り得ますか。
起きるのが辛い朝、「寝て過ごす」「頑張って起きる」
という選択肢が発生せず、「今日はやる気が起きないので
一日寝て過ごした」と言われたら?
(その上、主人公が行かなかった為にヒロインが悲劇に
見舞われたら?)
ノベルゲームでは3、4日選択肢がなく話が進むことも
多いです。(「3日後、」という飛ばしじゃないですよ)
これは決してノベルゲームとして特殊な例ではありません。
ノベルゲームの経験がおありならわかりますよね。

逆に上記に当てはまらない、個性のない「投影型」主人公
のノベルゲームの代表例があれば教えて頂けますか。

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