飯塚(東京都)です。

"tetsutaro" <tetsutaro_zzz@yahoo.co.jp> wrote in message
news:bv64r7$m36$1@news1.point.ne.jp...

> > 「アニメでできていることがゲームでできない」
> > 「小説でできることが、ゲームでできない」
> >  以上は、ジャンルの違うものを無理やり一緒にしていて、ナンセン
> > スであると考えます。もちろん重なる所もあるでしょうが、根本的に別
> > のものです。
>
> 「ドラクエ」、「FF」、「D.C.」、「君望」という縦線と「ゲーム」、
> 「コミック」、「アニメ」、「小説」いう横線の関係と考えています。
> 同じ縦線でもシューティングとノベルゲームで隔たりが
> あるのとは逆に、「コミック」、「アニメ」、「小説」の
> 壁はとても薄いと思います。

 わかりません。
 シューティングとノベルゲームの何が隔たっているんでしょうか?
「コミック」、「アニメ」、「小説」、ひょっとすると「映画」も含まれる
かもしれませんが、何の壁が薄いんでしょうか?


> で、ノベルゲームは「ゲーム」という横線の中でも「コミック」、
>「アニメ」、「小説」に非常に近い位置にあると思います。
> 線引きをはっきりさせてしまう必要はないと、私は考えます。

 メディアの違いをわかってて、あえて一緒に捉えるならわか
りますけど、それを踏まえず一緒にするのはおかしいでしょうね。
 どんなノベルゲームも、やはり電子小説とは違う。なぜ違うの
か、てつたろうさんはもちろんわかりますよね?


> >  それは個人の趣向の差だと思います。
> >  実際、顔とは行かないまでも、名前を設定できるゲームはあり
> > ますよね。あれは自分の名前をゲームの中に登場させたい、
> > さらにはキャラクターに呼んで貰いたいという要求があるからだと
> > 思います。
> >  また画面に主人公が登場するのがダメな人もいます。
>
> まさにその通りで、「私みたいな趣向の人間は少数派
> なんだろうか」という疑問からこの投稿記事は始まって
> います。

 ゲームの歴史とその性質上、投影型の方が多いでしょうね。
 特にいろいろなジャンルのゲームをやる人間ほど、この傾
向は強いと思います。
 ただ一番多いのは、必要に応じて切り替える人で、どっち
かでなきゃ全くダメという人はかなり少ないでしょう。


> >  なぜアクションゲームでオッケーなのか理由を話してもらえると。
> >  実際面白かったわけですよね?
>
> 飯塚さんの御説の通り、ACTゲームの駒にはキャラクター性
> がないからです。

 でもキャラクター性のないSTGもACTも今ほとんどないですよ。
 格闘ゲームのキャラクター性が特徴的ですけど。


> ゲームで、自分の選択とは無縁の処で主人公が台詞を
> 言う以上、「彼」はどうしても「私」ではあり得ない。

「自分の選択とは無縁」というところが、いまいち理解できませ
ん。
 操作の制約ならどんなジャンルにもありますよ。
「ああ、ここで斜めに動けたら弾を避けられるのに」と思うこと
はSTGにありますけど、だからって「自機が私ではない」とは
思わないでしょう。


> 自分の名前を仮に付けても、それは同名の別人でしか
> ありえません。

 主人公の取るべき行動を選択を「してあげている」のか、自分
が主人公であったらと想像して、選択するかで違うことはあるで
しょうね。
 この辺はその人の「想像力の差」であると思います。


> > 「駒」。そのとおりです。
> >  今だから主人公という言い方をしますが、要するに
> > 「自機」=「プレイヤー」なわけです。
> >  そこに疑うべく要素はなにもない。「それがプレイヤーである」と
> > わかる駒、記号であれば良かったわけで、ゲームとはまずそこか
> > ら歴史が始まっています。
>
> メンコや、ビー玉、独楽、凧、等もゲームの「駒」ですね。
> メンコやビー玉を、勝負に負けてとられて悔しい、
> 凧がうまく風に乗って揚がるとうれしい、
> というのを駒との「同一化」というなら、判ります。
> 駒は「私」が動かさないと動きませんから。

 テレビゲーム、ビデオゲームと言われるものは、メンコやビー玉
を元祖に持つわけではありませんから、同じ意味合いになるとは
限りません。
 グラディウスをやったことあるんですから、それで理解できるん
じゃないですか?


> > > >  ゲームはゲーム。アニメはアニメなんでしょう。
> > >
> > > 「コミックとアニメは別物」というならそうかもしれません。
> > > しかし、アニメ化された主人公の顔がコミックとは別人で、
> > > ヒロインはコミック通りだったら違和感があると思います。
> >
> >  ゲームにもアニメにも、そして漫画にもそれぞれ得意な
> > 表現方法と不得意な表現方法があります。
>
> 昔、ノベルゲームのように、選択肢でページへ飛んでいく本
> が出版された事がありました。

 ん? ゲームブックのことですか?

> ページを探して開き直すのが面倒でしたが。
> つまり「不得手」な表現方法だった訳です。
> ただし、不得手なりに同じ事が出来た、という事実も存在します。

 だから何? という感じがするんですが。(^^;)
 同じことをやろうとしたけど、うまくいかなかったから「昔」に
なってしまったんだと思いますけど。


> >  ジャンルが違うんだから当たり前ですね。
>
> 「当たり前」で終わらせることには納得できません。

 別に納得しなくてもいいですから、理解をしてください。
 メディアにはそれぞれ得意な表現法、不得意な表現法が
あります。これは当たり前のことです。ジャンルが違うんですか
ら。
 逆にそういう独自の分野がなければ、簡単に廃れていくでし
ょう。


> >  小説とも映画ともまた違います。メディアを乗り越えれば
> > 多少の違和感は当たり前です。
>
> メディアが違っても、同じ縦線です。
> 表現方法の違いや、作成に関わる人間の考え方で意図的に
> 異なったカラーを出すことがありますが、「キャラクタ性」は基
> 本的に共通に作ろうとしています。
> でも、ゲームに主人公の顔がないことで、意図していないであ
> ろう違和感が生じる、ということです。

 まず「同じ縦線」というところが、私には理解できません。
 次にメディアが違って(たとえばアニメで)主人公の顔に違和
感があっても、ゲームの作り手の知ったことではないと思います。
 ゲームの作り手は「ゲームとして最高の出来になるには、どう
すればいいか」だけ考えればいいことであって、これがその後ア
ニメ化されたらどうなるかなんて、余計なことです。
 そんなこと考える暇があったら、ゲームの完成度に力を注いで
欲しいですね。


> $  あれは「こんな顔だったんかーい」と叫んだ記憶が。
>
> というケースもあります。

 やはり「だから何?」と思います。(^^;)
 メディアが変われば違和感は当然のことです。


> > > 別に飯塚さんが「投影型」と類するゲームを否定してはいません。
> > > 「他者型」ゲームなのに主人公だけ「投影型」にしなくてもいい
> > > のに、と言いたいんです。
> >
> >  ノベルゲーム=他者型ゲームではありませんよ。
> >  どう設定されているかは、そのゲームによって違います。
> >  基本的に主人公を描かないゲームは、投影型を狙って作ってい
> > ますよね。
>
> 主人公をプレイヤーがコントロールできなくても「投影型」でしょうか。

 主人公を描かないゲームは、「投影型」を狙って作っている
でしょう。


> > > (というより、もしかしたら私の書き方が悪くて
> > > 私の考えが理解されていないのでしょうか…)
> >
> >  理解していますよ。
> >  私はなぜ顔を描かないのか、という説明を行っています。
>
> 「ノベルゲーム」以外で、の話だとばかり思っていました。
> なぜなら、「ノベルゲーム」で無個性の主人公は居ないし、
> キャラクター性の薄い主人公のノベルゲームは、つまらない
> と私は思うからです。

「面白い」「つまらない」は個人の趣向の問題です。
 ここまで来て「ノベルゲーム」の定義がわからないのですが、
個性のある主人公とは、たとえばどのソフトのことを言っている
のですか?


> >  その後「散華」という「禁断の血族」の冠を戴いたゲームもあり
> > ますから、一種のブランドにしたかったんでしょう。
>
> そういえば、「GLO・RI・A 禁断の血族」から
> 随分と間があいて出た作品ですね。
> このゲームは未着手ですが、小説版は読み
> ました。

 大したゲームじゃないので、買う必要はありません。
 私はこのソフトで、シーズウェアを見限りました。

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 東京都 飯塚顕充