In article <bh4rup$52b$1@nn-tk105.ocn.ad.jp>, crx wrote:
>>もっとわかりやすく一言で言えば、悟りを得るための修行。これを
>>行い、極めた結果、以下に続く真理を得たということを紹介してい
>>るのですね。
>
>自分だけの悟りを得るための修行ではないはずです。
>お釈迦様にしても、イエス様にしても、当時の社会の底辺に暮らす人々をいかに救う
>ことが出来るか、圧制の下に虐げられている人々をいかに救うことが出来るか、その
>視点は半分以上の心を占めていたと思います。
>自らの苦しみから脱却する方法。そして自らと同様苦しみの中で喘いでいる人々をい
>かにして救うことが出来るか。お釈迦様、イエス様のお心にはそんな事しかなかった
>のではないでしょうか?

 まず、「自分だけ」でないと、なぜ言えるのですか?
 大乗非仏説のように、「自分だけ」ではないのなら、それはもうシッ
ダールタの教えではないという立場があり、私もそう考えます。むろ
ん大乗仏教や密教を「仏教」と呼ぶのは適切だと思いますが、少なく
とも「お釈迦様」なりシッダールタという個人を持ち出すならば、そ
こでは「自分が悟る」ということが中心課題です。

 また、イエスはさておき、シッダールタが「底辺に暮らす人々」を
敢えて取り上げたりしていたとは私には考えられません。そう言える
根拠は何ですか?

 そもそもシッダールタの中心的な問題認識は、四苦八苦の克服であ
り、それはクシャトリアだろうがシュードラだろうが平等に抱くもの
であって、「底辺に暮らす人々」を特に注目したものではありません。

>> >>この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
>> >>皆さんのお考えを承りたい。
>
>> >つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、
>
>>般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、それは本
>>質ではありません。単に到達した時に得た結果を書いています。そ
>>してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
>>うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。
>
>お話になりませんね。絵にかいたお団子を見ただけでお腹が満腹するでしょうか?
>理屈だけで修行しないでみな「愛」が何かを理解し、愛せるようになるでしょうか?
>だとしたら、今ごろ地上は天国のごとくいかなる地においても戦争はなく、たとえ嫌
>なことがあったとしてもみな自分を反省し自らの内に神理に反する思い、行いを見つ
>けることが出来、あはは、おほほとどこの国でも微笑みや、笑いが絶えない世の中に
>なっていなくてはおかしいですね。


 第一に、般若心経は大般若経のアブストラクトであり、そもそも文字
数にしたって300字も無い代物です。従って、詳細な話が無いのはアタリ
マエ。
 第二に、般若心経というのは要するに哲学書であって、それによって
腹が膨れたり社会改革ができたりする代物ではありません。そもそも、
まさに、理屈を述べた文書です。修行は、それを読んだ個々人がするも
の。

 要するに、そもそも般若心境は crx 氏が言うようなことをスコープと
していないのですから、こうな批判の方が、「お話になりません」な代
物です。
 crx 氏の言は、いわば、空を飛べないと言って潜水艦を批判するが如
しですね。

>>何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
>>ません。
>
>どなたが制限をされているのですか?
>六波羅蜜をみんながしなければ死刑に処す。などとはどなたも言われていません。
>お釈迦様は、みんなが一番分かりやすく、かつ一番手っ取り早く仏法を理解でき、早
>く本当の幸せになって欲しいとの願いを込めて、智慧をふり縛った結果、六波羅蜜を
>まとめられ、お示しくださったのです。それはいわゆる人類全てへの神からのプレゼ
>ントなのです。

 日本語が読めないのでしょうか?
 「制限されません」とは、般若心経の中に「何をするか、どう生きる
か」に関する記載は無いという意味です。
 勘違いも大概に。

 また、「神」なんざ仏教ではそうとう低位の存在で、彼らが提供でき
ることはせいぜい現世利益への期待でしかありません。そんなものを仏
陀であるシッダールタを同列に持ち出すのは、噴飯物でしかありません。

>例えば愛するわが子の命が奪われてしまったとき、一番苦しくつらいその心は、何を
>したらその苦しみが軽く楽になると思われますか?

 執着を捨てることです。

 これはまさに、愛別離苦の事例で、愛に執着するから苦しいんだぞと
いう話ですね。

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頼光 mailto:raikou@mug.biglobe.ne.jp