Shin-ichi TSURUTA wrote in message ...
>"crx" <kimicrux@crux.ocn.ne.jp> wrote:

>> 「般若波羅蜜多」とは、古代インド語では、「パニャ―パラミタ―」という。
>> 般若(パニャ―)は智慧、仏智であり、波羅(パラー)は彼岸という意味であり、
向
>> こう岸つまりあの世の極楽ということ。蜜多(ミター)蜜が多いという中国の当
て字
>> で、意味は内在とか家の中というような意味。
>> 通して言うと、観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じた時、
>> つまり、「内在された偉大な智慧に到達するための生活行為を、深く実践したと
き」
>> という意味になります。

>もっとわかりやすく一言で言えば、悟りを得るための修行。これを
>行い、極めた結果、以下に続く真理を得たということを紹介してい
>るのですね。

自分だけの悟りを得るための修行ではないはずです。
お釈迦様にしても、イエス様にしても、当時の社会の底辺に暮らす人々をいかに救う
ことが出来るか、圧制の下に虐げられている人々をいかに救うことが出来るか、その
視点は半分以上の心を占めていたと思います。
自らの苦しみから脱却する方法。そして自らと同様苦しみの中で喘いでいる人々をい
かにして救うことが出来るか。お釈迦様、イエス様のお心にはそんな事しかなかった
のではないでしょうか?


> >>この般若般若波羅蜜多の行とは何をさすと思いますか。
> >>皆さんのお考えを承りたい。

> >つまり内在された偉大なる仏智に到達するためには、

>般若心経は「到達するため云々」とは書いていませんし、それは本
>質ではありません。単に到達した時に得た結果を書いています。そ
>してこの得られた結果は、修行することなく、誰でも得られるとい
>うのが重要です。そのため「空」の説明ですから。

お話になりませんね。絵にかいたお団子を見ただけでお腹が満腹するでしょうか?
理屈だけで修行しないでみな「愛」が何かを理解し、愛せるようになるでしょうか?
だとしたら、今ごろ地上は天国のごとくいかなる地においても戦争はなく、たとえ嫌
なことがあったとしてもみな自分を反省し自らの内に神理に反する思い、行いを見つ
けることが出来、あはは、おほほとどこの国でも微笑みや、笑いが絶えない世の中に
なっていなくてはおかしいですね。

>般若心経は、何をどうするべきかというようなことを押し付けたり
>はしません。真理として、「一切は空、空の立場で見れば全ては無」
>ということしつこく説明し、これを理解すれば苦しみや恐れから解
>放されるということを言っているにすぎません。

貴殿の言われる「これを理解すれば・・」のこれとはいかなる物でしょうか?
ここに具体的に、お示しくださいね。でなければお話は進みませんね。

>何をするか、どう生きるかは、好き勝手にしてよく、全く制限され
>ません。

どなたが制限をされているのですか?
六波羅蜜をみんながしなければ死刑に処す。などとはどなたも言われていません。
お釈迦様は、みんなが一番分かりやすく、かつ一番手っ取り早く仏法を理解でき、早
く本当の幸せになって欲しいとの願いを込めて、智慧をふり縛った結果、六波羅蜜を
まとめられ、お示しくださったのです。それはいわゆる人類全てへの神からのプレゼ
ントなのです。

例えば愛するわが子の命が奪われてしまったとき、一番苦しくつらいその心は、何を
したらその苦しみが軽く楽になると思われますか?

ゴータミという若い母親は、死んでしまって腐りかけてしまったわが子を背中におん
ぶし、お釈迦様に向かって半狂乱になって言います。「この子を生きかえらせてくだ
さい!!」
お釈迦様はゴータミの姿をご覧になって、微笑みながら言います。
「わかった。それでは、村村を歩き、死人の出なかった家を見つけ、芥子粒を三つも
らってきなさい。そうすればその子を生きかえらせてあげよう。」といわれたので
す。ゴ―タミは、「よかった」と思い、さっそく支度をし、村村を歩き、芥子粒三つ
くらいきっともらえるはず。と希望を持って出かけたのです。
しかし、ゆけどもゆけども、どのお宅を尋ねても、
「うちは、去年主人をなくしました。」とか
「私たちの息子もちょうど六つになった年に流行り病に罹り、なくなりました。」と
か
「かわいい娘が歩きかけたとき・・・家でもやっぱりその子が死んでしまったんです
・・・」・・・人々に聞けども聞けども、
「うちは誰も死んでいません」という家は一軒もありませんでした。聞いてゆくうち
にゴータミは、どの家にも厳しい現実があることに気付いてゆき、だんだん現実に
戻ってゆきました。

お釈迦様の元に戻ると。「分かりました。みんなそうだったんですね。死人の出な
かった家はありませんでした。みんな苦しいことに出会っていました。うちの子だけ
じゃありませんでした。死んでしまった子は・・・・」と、ゴータミは声をあげて泣
き、涙はあふれ、ほほを伝い流れて止まらなくなりました。・・・・・・・その後、
ゴータミは、他の、つらい思いから抜けきない人々のよき対話者、同伴者になってゆ
きました。

一番つらいとき、そのつらさの意味を受け取り、昇華し、建設的未来へつなぐことが
出来るようになること。それは、つらいからといって「寝ていなさい」ということで
はありませんでした。つらい時、そのつらさを、むしろ幸せに持ってゆく方法。それ
は、自分と等しく、あるいは自分よりもっとつらい人々の対話者・同伴者になること
でした。 六波羅蜜で言えば、「布施」であると思います。その布施の行為は、自分
が苦しいときに、嘘偽りなく真に幸せになって行ける道である。ということです。


crx