中田と申します。

実は私も以前実家が外房線の誉田にあり、私自身高校生から大学院
卒業まで計10年ほど住んでいたことがあります。
今でも家はありますが、人は通常住んでいないという……

時期的には跨線橋が出来あがった丁度あとぐらいからでしょうか。
それまでは茂原に住んでおりましたので、誉田駅の跨線橋以前のへんて
こな渡り方も記憶にありますし、駅本屋のあるほうが3番線という話題なども
大変なつかしく読みました。
当時はまだ誉田は快速停車駅ではなかったですね。ただ、千葉から大網まで
の間で蘇我よりも早く快速停車駅に昇格したのでした。
今となってみればすっかり両隣駅に抜かされてしまいましたねえ。
鎌取なんて当時は本当に何も無いところで……

昔高校の同級生で鎌取に住んでいたやつが蘇我からタクシーに乗って
「鎌取まで」というと、運転手は「は、カマトリ? どう行くんでしょうね?」
という感じで全然要領を得なかったそうです。

MUNEMOTO Hisaya wrote:
> 昔、内房線と外房線の上りに朝1本ずつ幕張行きというのがありました。
> ラッシュ時なので車庫に入れる電車を千葉から先回送とせず、行けるとこ
> までお客さんを乗せて行ったんだと思います。千葉駅では4番線とか6番線。

この列車は以前このニュースグループで私が話題にとりあげたことがあります。
私が見聞したところでは、房総方面から幕張電車区に通う国鉄職員用に運転
していたという説があります。鉄道雑誌で見たような記憶があります。

当時はまだ房総地区では旧型国電の電車も多かったのですが、この幕張行き
は必ず冷房つきの113系の運転でした。

> この幕張行き、千葉駅で乗り換えずに済むので便利だったのですが、
> 時間がちょっと悪く高校通学には遅刻してしまうので使えませんでした。

私は逆に毎日この列車に乗って高校に通学しておりました。もっとも私は
千葉駅より手前で降りていましたが。

当時の千葉駅の思い出といえば、万葉軒の「そば」かなあ。よく高校の帰り
一駅戻っておやつに食べたものです。

-- 
hnakada@abeam.ocn.ne.jp