佐々木将人@函館 です。

>From:Keizo Matsumura <kmatsu@nr.titech.ac.jp>
>Date:2004/07/20 12:27:55 JST
>Message-ID:<40FC913B.9F4E5F6E@nr.titech.ac.jp>
>
>スレッドの先のほうで佐々木さんが紹介していた本で。
>(早速3冊購入読んでみました、2冊絶版))
>
>「法律学への旅立ち」 渡辺洋三著 岩波書店

(以下後述します。)

>だからーー法治国家に一部なっていないじゃん。

全然理由付けがわかりません。
さらに

>裁判官が裁量で判決することもあるのだから、

その裁量なるものは
憲法76条3項に定められた
「良心に従い独立してその職権を行い
 この憲法及び法律にのみ拘束される」
の範囲内であり
かつその裁量の範囲も法律や判例等で制限されている上
下級裁においては上級審による審査まで加わります。

そのいくつかは別途投稿で示しています。

そういうのを「裁量」などとは到底言えないと思います。

>裁判官裁量判決国家と
>表現しても、問題ないんじゃないですか。

問題大ありです。
一般の意味においても「裁量」と言えないことは
上で示したとおりですし
証拠の採否が裁量と言えたところで
それに基づく裁判自体が裁量だとは到底言えません。

くわえて
「法治国家ではないんだもの。裁判官裁量判決国家でしょ」
という文の適否な訳です。

まず日本が「法治国家ではない」というのは
まあ論外と言っていい主張なのは
既に指摘したとおりです。

さらに「法治」の反対語はおおむね「人治」と考えていい訳ですが
仮にこの言葉を知らないとしても
「法治国家ではない=裁判官裁量判決国家」
と言っているのですから
「法ではないものに治められている国家=裁判官裁量判決国家」
だという主張な訳ですが
上記憲法76条3項をあげるまでもなく
裁判官は憲法と法律にしたがって裁判をしているのですから
その時点でそれを裁判官裁量判決と評したり
さらに法治国家ではないことにするのは
全く根拠がなく破綻しています。

>法律専門家でも法治国家、裁量の言葉の使い方は一義ではないようです。
>(複数ある)

そのことは、
言葉に世間ではおよそ通用しないような勝手な意味づけをすることの
正当化事由には全くなりません。

以下誤った主張の根拠にされると渡辺先生がかわいそうなので……。
(長くなっちゃったから読み飛ばしても可。)

>P.41
>公務員が法律にしたがって行政活動をしなければならない原則を、
>「法律による行政」あるいは「行政の法律適合性」「法治主義」と呼んでいる。
>そしてこの原則を採用する国家を「法治国家」という。

で、現代日本の分析として
「裁量とか指導・助言、勧告という形での現代行政は、
 「法律による行政」という範囲を超えている」(p46)
という問題提起をしています。
(法律による行政の原理には反していないが
 反していないからよいというものではないのではないか……
 だから「法律問題として裁判で争うことができない。」(p46)
 そういう問題提起ですね。)
法治国家ではないとは一言も言ってないどころか
法治国家であるとした上で
法治国家であればいいということを述べているのではない、
まさに「伝統的な「法治国家」の考え方では対応できない。」(p46)
という話な訳です。

>P.45
>裁量とくに自由裁量なるものは、だから「法律から自由な」領域であり、
>したがって固有の法律問題になじまない。

p46の記述でおわかりのように
これはもともと行政の話な訳ですし
仮に裁判の場にあてはめるにしても
裁判はそれこそ法律に従って不服を申し立てることができるのですから
「法律問題として裁判で争うことができない」
話に持ち出すこと自体不適当です。

>P.118
>裁判官がよく使う手であるが・・・「遥かに超え」、「著しく不合理」、
>「甚だしく均衡を失し」と、形容詞と副詞の濫発である。
>何が「遥かな」のか、何が「著しい」のか、何が「甚だしい」のか?
>それは論理的でないから、よく分からない・・・
>P.119
>判旨は、厳密には一貫しておらず、文章のあやでつづっている・・・・

ちなみにこれはいわゆる尊属殺違憲判決を例にして
判決文の中から判例理論(命題)と傍論をふるいわける作業の例を
示した中での一節です。(p111以下)

で、上のp118は
多数意見(法廷意見)を分析した上で
「立法目的合憲論と手段違憲論との2つの論理の組み合わせから成り立つ
 本判決の「判例理論」としての評価はむずかしい。
 なぜならば、この論理は、合憲論と違憲論という、2つの矛盾したものを、
 あたかも矛盾しないかのごとく説明しているからである。」
という説明に続くものである上
さらにその続きとして上記p119の引用の後で
「このうちのどの部分が「判例」なのかについて、
 また諸説が分かれてくる」(p119)
としている部分です。

結局
「この判決からどの部分が判例になるのを分析するのは簡単ではない。
 簡単なことではないのは
 これこれこういう点を検討しなければいけないからだ。」
という話なのです。

……法治国家だとか裁判官の裁量とかとは
  まあ無関係な話

※なお渡辺先生の批判をしておくと
 「合憲論」と「違憲論」は矛盾するけど
 「立法目的合憲論」と「手段違憲論」はたいてい矛盾しないし
 それを矛盾というなら
 憲法でよくやる各種の憲法判断基準が
 みな矛盾の解消法ってことになってしまいます。
 (例えば「より制限的でない他のとりえる手段」とか……。)

まつむらさんの弁護をするなら
どうせならp114あたりの
地裁 200条違憲・199条適用・過剰防衛と心神耗弱で系の免除
高裁 200条合憲・無期懲役を心神耗弱と酌量減軽の2段で3年6月に落とす
あたりの話を持ち出した方が
まだ読者の共感を得られたかもしれない。
さらに違憲論の中でも法廷意見は実は8人で
残り6人は立法目的違憲論だったことをあげるなら
まだ話は見えたものです。
(ちなみに詳細に検討するともっと分かれます。
 暇でしたら最高裁判決原文から論点ごとの表を作ってみると
 勉強になるでしょう。)

なお、判決に紋切り型のものが多いことを批判しているのは
むしろ(私の記憶に間違いがなければ)
井上薫裁判官の「判決理由の過不足」です。
そして井上裁判官はそういう判決が結構見られることを述べていますが
その指摘が正しければ
まさに「裁判官は裁量などしていない・できない」ことの
有力な傍証になるはずです。

当然

>こういう判決も多いことを私(まつむら)は知っています。

という人は
「裁判官は裁量で判決している」などとは言えません。

>P.143
>残念ながら、日本社会は、今のところ、法的後進国にとどまっている。

これは「リーガル・マインドだけは、生涯、忘れないでほしい。」(p141)
に続く文章です。
正確に言うと
「より具体的にいえば、予断や偏見にまどわされずに、事実をあるがままに
 素直に、かつ公平に観察する能力、他人の言うことによく耳を傾け、相手
 方の立場に立ってものごとを考える能力、定められた約束ごとや手続の中
 で自分の主張したい争点を論理的に明確にし、説得力ある「論争」を展開
 することのできる能力、そのために主張事実を論証でき、論理的に矛盾し
 たことを言わないようにちゅういする能力、さらに他人から相談を受けた
 とき、対立関係にある他方の当事者から話も聞かないで、一方当事者だけ
 の話や伝聞証拠のようなものだけをうのみにしない能力、それらを総じて
 一言で言えば、色眼鏡をつけない健全な目で、感情におぼれず、冷静にも
 のごとを判断し、そのことによって他人から信用を博する人格の形成能力
 ということである」(p142)
として
「日本のいたるところに、1人でも多くいれば、日本社会は、今よりもはる
 かに、法的社会になり、法的後進国から脱却することができよう」
(p143)
と書いたあとに続くのが上記引用文なのです。
そして渡辺先生は
「さらには国民生活のレベルでも、リーガル・マインドを身につけた人が、あ
 まりにも少なすぎる」
と嘆くのですが……。

そうだとすれば

>P.143
>残念ながら、日本社会は、今のところ、法的後進国にとどまっている。

というのを何かの根拠として示したいのであれば
まずまっさきに
「法治国家ではないんだもの。裁判官裁量判決国家でしょ」
などという主張をしたことを恥じて
「リーガル・マインドを身につけた人」
になるべくさらなる努力をすべきでしょう。
(なお、「さらなる」と書いたのは
 渡辺先生の本を自ら買って自ら読んだ点は
 十分に「努力」と評価できるからです。)

>P.185
>日本のすべての裁判官が、良心にしたがい、独立して裁判するよう
>になれば、日本の法秩序は安泰となるであろう。しかし、現実には
>そうなっておらず、日本の司法制度の中には、これを阻害する要因が
>沢山ある。

その後に
「しかし、この点については、私も別な機会で述べているし、
 どちらかというと法社会学の課題である。」
として渡辺先生は自著を紹介しているのですから
それを引用しておくべきでしょう。

さらにその後で
「個々の人間の良心はさまざまであるから、
 裁判官の両親も、人によって、異なりうる。
 それゆえにこそ地裁相互の間でも判決は異なるのであり、
 また下級審と上級審の間でも判決の対立が生ずる。
 そして、この対立は、制度的には、
 最上級審である最高裁裁判官の良心によって決着をつける以外にない、
 というのが今の社会の約束ごとである。」
と書いており
「判決が違うと片方が正しくて片方が間違い」
という別の投稿におけるまつむらさんの主張を否定しています。

※
ちなみに私はこの渡辺先生の主張にも賛同していません。

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Talk lisp at Tea room Lisp.gc .
cal@nn.iij4u.or.jp  佐々木将人
(This address is for NetNews.)
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ルフィミア「本当に本が出そうなんですか?」
まさと「なんか出そうな感じだよ。」