Shinji KONOさんの<3990609news.pl@rananim.ie.u-ryukyu.ac.jp>から
>河野真治 @ 琉球大学情報工学です。
>
>In article <YQ_6d.12021$NC6.6688@newsread1.mlpsca01.us.to.verio.net>, Sugawara <sugawara81@hotmail.com> writes
>> 僕たちの日常言語は形式化された人工言語ではない。フォン・クリフトの論文
>> 「義務論理」って知ってるかな。
>
>様相論理は割りと僕の専門だけど.... 日常言語学派なんてのも
>あるんだよね。


>でも、日常言語だから、特に何が有利かってことはないんだよな。
(価値の問題)

>もし、そうなら、プログラミング言語は日常言語になっているはずだし。
(価値の問題)

>
>現に、君のこの記事でも、ものの見事に
(価値の問題)
>「日常言語を使えば、ここがこう違う」ってのは欠落している。
(価値の問題)

ものの見事に欠落してるのは、君の、記号論理学で日常思考をしてないにもか
かわらず、自分で論理的思考をしてるのかのような態度だね。もし、君の思考
が日常言語を使用せずに行っているというなら、説明責任は君にこそある
よ。

君は、日常言語を否定しているのか?だったら日常言語を使っての思考をなぜ
やめないんだ。事後検証のときのみよそ行きの人工言語のコートをはおり、日
常の行動や思考は、事実と価値の混乱した日常会話言語で思考しているという
そのようなあやふやな思考がもっとも危険だということだ。

河野君、
フィンランドの論理学者フォン.リクト(Henrik von Wrigh
t)による記号化−>、アメリカのアンダーソンによる社会学への応用、こう
した試みで自然言語の文法構造上不十分な、いわゆる言語の様相(moda
l)的な側面が示されたが、イギリスの言語学者ヘアーは「日常言語学派」と
して特別な記号を使うことなく、同様の根本思想にいたっている。
つまり、ある様相から他の様相への移行が無媒介的に行われないことを明示し
ている。
ヘアーの根本思想はリクトと照らしても正しいということだ。

ここで日常を見れば、たとえば君をまな板にのせれば、日常言語による判断や
思考というものへの注意力のなさが、君を大衆思考にとどめているわけだ。
このような大衆思考というのは、言語を人間が獲得して以来連綿と続いている
ものだが。

そこでだ、君のような事後検証以外は人工言語を脱いでパンツイッチョウの原
始人が、どういう問題を日常において犯しているかということを問題にすべき
だと思うね。

公理主義的な倫理学的方法は、価値一元論のトップダウン思考だよ。それに対
してethical disagreement(倫理的不一致)の分析から
出発するのはボトムアップ的な思考だね。C.L.スティーブンスなんかが代
表的だが、要約すると、君と君の女房の価値が一致せず、互いに自分が正しい
という不一致があるとしよう。どのような議論でこの不一致を君は解消できる
かね。記号論理学で解消できるか。合理的解決などありうるのか。
スティーブンスは不一致に対して、「見解上の不一致」と「態度上の不一致
」に分ける。見解上の不一致は、たとえば、科学者甲乙二人の科学的見解の相
違。態度的な不一致は、相性などの好き嫌いと見ればよいだろう。今回の事実
と価値の議論の場合もそうだか、科学上の議論であるなら「見解上の不一致」
だが、通常の日常会話的議論においては「見解上の不一致」と「態度上の不一
致」この二つの不一致が共に存在している。

スティーブンスは「見解上の不一致」は「態度上の不一致」が解消すれば終結
することも多々あり、「見解上の不一致」に「態度上の不一致」が影響を与
え、関連することを言っている。逆に、「見解上の不一致」が「態度上の不一
致」に関連することもあるが、いずれにせよ「態度上の不一致」が支配的だと
いうのだ。「見解上の不一致」は科学の進化でも解消しうるが、「態度上の不
一致」はそうも行かない。すなわち、科学は「態度上の不一致」が「見解上の
不一致」に依存する場合に限り、不一致の解消に貢献するということ。このス
ティーブンスの説は未完でも、功績は大きい。

これらは、きわめて政治的な問題にもあてはまる。河野君の投稿姿勢にもあて
はまるのでは?
anko君、北朝鮮、中国らの「態度的不一致」。靖国も「見解上の不一致」
以上に「態度上の不一致」が絡んでいると思うね。

トップダウンの公理主義的な思考というのは、これのみを正しいとするなら自
然主義的立場であり、価値一元論であり、政治をはじめ日常の諸問題解決には
ほど遠い。記号論理学の功績を私は否定するものではない。むしろ、評価する
組だよ。ただね、現代人はことに、日常会話言語の混乱による、それも、価値
言明と事実言明というツールによる暴走や混乱が、あたかも論理的正当性を確
信するというレベルに達する。事実と価値の二元論という視点が乏しい。ポア
ンカレの指摘は古くて常に新しい見解だよ。