golden cross wrote:
> golden cross wrote:
> 
> 
>>可能であるから住み分けろ、という事にはならないよね。飽くまでも実質的な考
>>えを呈示できなければならないのです。意見を意見として尊重し、表現(内容)
>>には表現(内容)でしか対抗できないと言う実質論です。
> 
> 
> わたくしはfjがNetNewsとして自由に投稿が許されかつ知る自由と言う意味で閲
> 覧の自由が許されるのは、まさに日本国憲法が保障する価値を実践するものだか
> らであると考えます。
> 
> 一説によると表現の自由やそのコロラリーとしての知る権利などは個々人が日本
> 国に向けて主張できるに過ぎず、私的関係においては問題とはならない、として
> いる立場もあるようであるが、その様な見方は既に古く、既に何百年何十年と語
> り継がれてきてむしろ形骸化している。現代的意味では、その憲法規定は私人間
> や私的団体と個人間においても妥当するものであって、それは即ち、その憲法規
> 定が実現しようとするものを一種の「価値」と考えて、客観的に(国家内におい
> て)実現実践される事を意図したものと言う風に捉える事が必要であるし、fjは
> 其れを実践する急先鋒でありたいと願うものであります。
> 
> 其れだからこそ、インターネットにおいて人類の所有するリソースをガブ飲み出
> 来るのであって、そうで無かったならば、たんに技術的に許され可能となったか
> らと言うような理由だけでは許されると考えるべきではない。このことは私的に
> サーバーを稼動させている者へも同様に当てはまる事である。
> 
> それを前提として、「表現行為」に話を移すと、何故にわれわれには好き勝手に
> 表現が許されるのかを問えば、それは、その個人の自己実現と言うだけではなく
> (自己実現というのも既に当たり前すぎて古すぎるし、大雑把過ぎる)、社会に
> 多くの選択肢を提供するにあるからだとわたくしは考えます。この個人の自己実
> 現と多くの社会への選択肢の提供とを踏まえつつ、でたらめが横行する事が無い
> ようにする(これを表現の自由に於ける「公共の福祉論」と言ってもよいであろ
> う)ためには何が必要かを考えるのでなければならないと思う。
> 
> 恐らく、此の点で、実名・所属表明派と匿名派とは考えの袂を分つように思え
> る。匿名派のわたくしに言わしむれば、表現活動におけるでたらめの排除は唯一
> 表現活動によってのみ可能となる。具体的には、表現にはその反論が許されてこ
> そ一丁前の表現活動といえる、と言うものであります。
> 
> この「反論が許される」と言うことにも一つ注意を喚起しておかなければならな
> い。これは或る者が表現活動に入るときに行動の自由を束縛してはいないか、と
> かいうことをさすのではない。他者が反論するのは相手の表現に於ける推論過程
> の問題点や根拠になっているかとか理由は何かとか、また論理性や価値観であっ
> たりするわけであって、それが可能となるような材料を提供した表現をしなけれ
> ばならないと言うことであります。その様なことが欠落した表現には反論のしよ
> うが無い。ゆえに、表現の自由に於ける公共の福祉論を省みない行動であって尊
> 重するに値しない。
> 
> わたくしは、以上の観点からのみ「でたらめ投稿」を規制すべきであって、実名
> や所属を表明しないからというような観点から規制するのは<筋違論>だと考える。
> 
> 尚、実名・所属表明自体をも排除するとする考えは以上からは出てこないとする
> 見方もありえようが、矢張り関係する。わたくしは、表現には表現で対応すると
> 捉えたときこそ、どの表現をも平等に尊重する事になると予測するからでありま
> す(概略は既に述べてあるし詳しくはまたの機会)。
> 
> --
> Golden Cross

ある投稿記事で、確か池田氏だったかと思うが、fjは、大学院生あるいは研究者
の卵の方たちによって開設・利用されたのが始まりだから学術系であるのは否定
できない、との趣旨が述べられた事がある。この事を切っ掛けにしてわたくしの
考えを申し上げたい。

「学術系であることは否定できない」と言い、「だから、、、」の説明が手薄で
あるところから、彼の言おうとしている趣旨は、要するに、学者(卵も含めて)
立ちの集まりの性質を帯びるのは致し方が無く、いわば、学会と同様の主義に立
つのが当たり前ではなかろうかとするものであろうと推測される。確かに、学会
であれば、此れまでもそして現在もさらには将来においても、実名・所属を名乗
らずして意見を述べたりましてや論文を呈示するような事はありえないわけで、
実名・所属を表明する事など至極当然の事であって、寧ろ常識に属する。実質的
理由など論う事さえ奇妙な事で、それこそ妥当性など気にすることの無いいわば
空気のような決まり、すなわち「文化」であろう。

さて、では、あなた方はfjをその様な「学会」に似せたものにしたいのでありま
しょうか?さあ、どうなのでしょう?池田氏などは口では明確にしてはいない
が、この意図が口ぶりから見て取れない事は無い。皆さん、まず第一にこの事を
考えてみようではありませんか?

話しを急ごう。第二は、実は、重要な視点として誰もが気にすることの無かった、
        学会では実名・所属表明が当たり前

この実質的理由を問う事ではないかと考える。もし、さしたる理由もなく、たん
に、それは学会では厳然とした文化だから、というような事を理由とするのであ
れば、その様なことを拠りどころにする、fjにおける実名・所属表明主義は吐き
捨てるのが正当。なぜなら、理由は単純明快。fjは「学会」ではないから。こう
ならないためにも、学会で実名所属の表明があたり前であるとされる実質的理由
を問う必要があるのであります。もちろん、学会と言わず、物事によっては「あ
たり前」であることも多いでありましょう。学位論文審査にあってなどは此れが
言えるでありましょう。一般の入学試験みたいなものでしょうからね。しかし、
何故、なんでもかんでもが実名・所属表明が要求されるとすることに疑いをはさ
むことが無いのだろうか?このところを問題にしなければならない。

わたくしは、これは「(これまでの)学会に於ける権威主義」が少なからず影響
しているように思えてならない。ある権威によって好まれ色付けられた所謂「学
会」は純粋に一学者の学説の「内容」等よりはいわゆる「シューレ」の方に関心
がある。これが実名は勿論のこととして所属あるいはそれ以上のことを要求する
のではないか?此の点に関してはもっと多くのことを語らなければならないのか
もしれないが、各位にはそれぞれ思い当たる「ふし」を推測していただき先に進
めよう。

河野等はこのことを単純に、単なる、一般不特定しかも多数に向けられた
NetNewsにおいて無批判的に援用しているに過ぎないのではないか?さしたる理
由が無いにも拘らず、強引にしかも理不尽にfjを実名・所属表明化しようとする
その姿勢は其れを物語っている。その様な態度は実は、天に向かって唾をはくこ
とになるやも知らずに、であります。

もう一度繰り返す。

      意見を意見として平等に扱う姿勢、学説を学説として
      平等に扱う姿勢は匿名にすぐるものは無い。後の全て
      はその「内容」が決定する。

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Golden Cross