! "<41317043$0$8804$44c9b20d@news3.asahi-net.or.jp>" という記事で
!     Sun, 29 Aug 2004 14:57:25 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:

> KGK == Keiji KOSAKAさんの<cgmtmo$87q$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> ! "<40df62ce$0$19846$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
>> !     Mon, 28 Jun 2004 09:14:15 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:
>>> それで両者が自分の行為を修正するくらいなら、そもそも他人に言われる前に
>>> 修正できるはずでしょ。行為の悪さ自体は理解しているんだから。
>> 
>> とは限りません。
>> 多くの人は、自分のことは、割と見えてないものです。

> だったら、やっぱり無限ループになるじゃん。

なんで?
他人に言われる前は自分のことが見えてないけど、他人に言われて気がつくっ
てことなんですが。

で、

>> どちらにしても、それはその人の特性に対する評価です。
>> その人がある種のことをして、ある種のことはしないはずだって話でしょ?
>> それも、そういうことがその人にとって恒常的だと。

というのは見えないふりをするんですね。
そこまでして人の特性にこだわりたいんですか?
人の特性の評価をするのなら、個々の行為の評価とは切り分けて考えてくださ
い。
個々の行為の評価をするのなら、人の特性の評価とは切り分けて考えてくださ
い。
当たり前の話だよね。

>> そういう事態になったとして、行為の評価として何が悪いかといえば、「定まっ
>> た評価」に自分が従わないことでしょ?
>> 「他人には文句を言うけど」という部分がなかったとしても「自分自身の行為
>> は見てみぬ振り」だとしたら、自分の行動を修正しないことには違いないわけ
>> です。
>> 悪いのはそこ。
>> その場合はループにはならないとしても、行動が修正されないから事態はよく
>> なりません。

> だから当事者の双方がそうだったら無限ループじゃん。

ループになるかどうかで、何が変わるんでしょう?
ループになることで特別に悪いことがない限り、問題点は「自分自身の行為は
見てみぬ振り」の部分だけだと思っていいよね?

>>> 「他人は評価するが自分に関しては評価しない」なんて前提は何処にも存在し
>>> なかったはずですが?違いますか?
>> 
>> そうですね。
>> 同時に「他人を評価するときに必ず自分に関しても評価する」という前提もあ
>> りません。
>> よって、他人を評価するときに、自分に関して評価する場合としない場合があ
>> るってのが、普通です。
>> その一方を排除したければ、適当な前提を持ってこなくちゃいけません。

> 普通の社会人にその程度を求めることが不当ですか?

「求める」のは自由ですが、現実には両方のケースが普通にあるでしょ?
現実を無視した決め付けからは、適切な議論は生まれません。

> =====

>>> ないんなら、一貫性に欠ける評価は社会的に正しくないわけ。
>> 
>> この部分と、
>> 
>>> その批判は「自分自身を特別視し除外している」という一貫性を欠いた身勝手
>>> なものである時点で*社会的に正しくない*わけですよ。
>> 
>> この部分で、「一貫性」のかかる対象が違います。
>> 前者は、普通に考えて、ある「社会的に正しい評価」と別のそれとの一貫性を
>> 表現してますが、
>> 後者は一人の人間が行なったある評価と別のある評価との一貫性になっていま
>> す。

> 「ある評価」と「別のある評価」ってのは「社会的に正しい評価」であれば当
> 然一貫性はあるでしょう。

それが何か?

>> 「社会的に正しい評価」を二つ持ってきて、その間に一貫性がないってことは
>> あまりないでしょう。

> だったら、少なくともどちらかは「社会的に正しい評価」ではない身勝手で個
> 人的な評価だって事でしょ。

身勝手かどうかとか、個人的かどうかとかは、これだけでは分かりません。
で、少なくともどちらかは「社会的に正しい評価」ではないのは確かですが、
だから何でしょう?
悪いのは「社会的に正しくない評価」の方であって、「社会的に正しい評価」
の方まで巻き添えにする必要はどこにもないよね?

>> しかし、一人の人間が行なった評価を二つ持ってきても、一貫性がない場合は
>> あります。
>> その場合は、大抵は、少なくともどちらかの評価が間違ってるってだけの話で
>> す。もう一方は間違ってる場合も正しい場合もあるでしょう。

> 結果がどうであれ「社会的に正しい評価」を行っていない時点で間違い。

「もう一方」は「社会的に正しい評価」であればOKですよね。
他に「社会的に正しくない評価」をしたからといって、「社会的に正しい評価」
が咎められることはないでしょ?

>> 「一貫して間違ってる」より「一貫していなくてもどれか正しい」の方がよいっ
>> て意味です。
>> で、普通は二種類のことを一度に直そうとすれば、どつぼにはまるのがオチで
>> すが、一つづつ直すのはどちらかといえば容易です。
>> ですから、「一貫して間違ってる」ような場合は、「一貫していなくてもどれ

> #何故、出発点が「一貫して間違ってる」限定なんだ?詭弁じゃん。

そういう場合から考察を始めてるってだけの話ですね。
何か問題でも?

> #そもそも「一貫して間違ってる」のなら一つの間違いを正せば済む話ですよ。

「一貫している」ってことと「同じである」ってことは違いますね。

>> か正しい」ことを目指すのがよいでしょう。
>> もちろん、最終的には、「一貫して正しい」になった方がよいわけですが。
>> 
>> つまり、一貫することよりは、正しいことを優先した方が、最終的によいわけ。

> 「俺様にとっては」そうですね。

いいえ。
社会的に正しい方向を優先する方が社会的に正しいでしょ?

> それを押し付けられる他人にとってはたまっ
> たもんじゃない。

正しい批判をされるのを「押し付けられる」と評するのは間違いですね。

> そして、万人から見れば「誰かに都合よく一貫していない」
> よりは「一貫して間違っている」方がマシなわけです。

(1) 誰のポイ捨てでも容認する。
(2) 他人のポイ捨ては容認し、自分のポイ捨ては容認しない。
(3) 自分のポイ捨ては容認し、他人のポイ捨ては容認しない。

の三つのうち、(2)や(3)よりも(1)の方がいいという主張ですか?
しかし、容認されるポイ捨ての量は、普通に考えて、(1) > (2) > (3) ですね。
普通に考えて、容認されるポイ捨てが少ない方が、社会的により正しいと思い
ますが。
個人的に一貫してるかなんて、社会的に見ればどうでもいいことでしょ?

> <余談>

>> 普通は、大義名分に従うことはよいことだし、従わないことは悪いことです。
>> だから、その人は、あるときは正しいことをして、あるときは間違ったことを
>> したわけです。
>> それだけのこと。

> いつの間にか「大義」が「大義名文」に摩り替わっていますね。

いいえ。「大義名分」です :P

> 意味の違いを
> 理解した上でやっているのでしょうか?

もともとは、wacky氏の、

<404278a5$2$19832$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>:
| その1人の人間が「社会的誤りを正すのだ」といった大義名分・錦の御旗を掲
| げていなければそうでしょうね。

が最初ですね。それが「大義」にすりかわったのは、やはりwacky氏の、

<40919cc1$1$19846$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>:
| 「大義」が「行為者が誰か」によってうつろうわけなどないでしょう。

です。私はそれを元の表現に戻しただけ。

で、wacky氏は意味の違いを理解した上でやっているのでしょうか? :P

> </余談>
-- 
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK