Re: 悪いのは何時も他人ですか? (Re: 矛盾
! "<40df62ce$0$19846$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
! Mon, 28 Jun 2004 09:14:15 +0900 頃に wacky さん は言ったとさ:
> KGK == Keiji KOSAKAさんの<cbjca1$6nc$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>> 「世の中がそんな奴ばっかりだったらどうなるか」を考えれば、それが最悪の
>>> 選択であることは明らかでしょう。
>>
>> 「そんな奴」ってことは、やはり人の評価をしてるようですね。
> そんな小手先の難癖しかつけられないんですか?
小手先でも難癖でもなく、本質的な部分です。
wacky氏は、一個の行為を評価してるんじゃなくって、そういう行為を恒常的
に行なうような*人*が世の中に多かったらって話をしてますよね。
それは、全然違う視点です。
そのような視点で議論したければ、そっちで論点を構成すればよいですが、そ
れは、一個の行為の評価とはほとんど関係のない話です。
>>> #二人いただけで無限ループだし。
>>
>> どういうのを無限ループって言ってるんでしょう?
>> 一往復しただけで、それぞれの行為の評価は定まりますよね?
> それで両者が自分の行為を修正するくらいなら、そもそも他人に言われる前に
> 修正できるはずでしょ。行為の悪さ自体は理解しているんだから。
とは限りません。
多くの人は、自分のことは、割と見えてないものです。
どちらにしても、それはその人の特性に対する評価です。
その人がある種のことをして、ある種のことはしないはずだって話でしょ?
それも、そういうことがその人にとって恒常的だと。
行為Aをして行為Bをしないような特性の人がいるってことと、行為Aの評価や
行為Bの評価は何の関係もありません。
> それがお互い自己棚上げで「他人には文句を言うけど自分自身の行為は見てみ
> ぬ振り」だから、その「定まった評価」を相手に押し付けあって自分は修正し
> ないっていう「お前こそループ」に陥るわけじゃん。
そういう事態になったとして、行為の評価として何が悪いかといえば、「定まっ
た評価」に自分が従わないことでしょ?
「他人には文句を言うけど」という部分がなかったとしても「自分自身の行為
は見てみぬ振り」だとしたら、自分の行動を修正しないことには違いないわけ
です。
悪いのはそこ。
その場合はループにはならないとしても、行動が修正されないから事態はよく
なりません。
> #何度説明すれば…
何度説明したところで、「自己棚上げをするような人はこんな人に違いない」
と決めつけた上で論理展開している以上、行為の評価ではなく人の特性の評価
にしかなっていません。
>> なんで「置き換え」なんだろう?
>> 自分に関しては現状維持で、相手に関しては「悪」が減るように働きかけてん
>> だよね?
> あなた、それを「悪が減るように働きかけている相手」に胸を張って言えます
> か?
胸を張って言えるかどうかが、何か関係があるんでしょうか?
そんな情緒的な話はこの議論に何の関係もないでしょ?
> 言ったとして、相手が納得して自分だけ行動を修正すると思いますか?
まっとうな人なら、自分だけでも行動を修正するでしょうね。
もちろん、自分がやった行動の悪さが理解できればの話ですが。
自分の行動が悪いかどうかと、他人が何やってるかということは、何の関係も
ないでしょ?
>>>>>>> A:ポイ捨てをする他人を批判する
>>>>>>> B:ポイ捨てをする自分を批判しない
>>>>>>
>>>> 自分に関して評価しないのであれば、何も矛盾はないでしょ?
>>>> 「行為者が誰であるかによって評価は変わらない」ってのは評価をした場合に
>>>> しか適用できない話ですから。
>>
>>> よくある「つかまらなければ犯罪じゃない」理論ですな。
>>
>> いいえ。単なる論理導出です。
> 単なる詭弁にしか見えませんけど。
それはそちらの事情ですから、私の方はどうしようもありません。
>> 前提が足りないって言われてるんだから、適切な前提を加えればいいのに。
>> # あれば、ですが。
> ???
> 「他人は評価するが自分に関しては評価しない」なんて前提は何処にも存在し
> なかったはずですが?違いますか?
そうですね。
同時に「他人を評価するときに必ず自分に関しても評価する」という前提もあ
りません。
よって、他人を評価するときに、自分に関して評価する場合としない場合があ
るってのが、普通です。
その一方を排除したければ、適当な前提を持ってこなくちゃいけません。
> #常識的な前提を否定して勝手に都合の良い再解釈をするのはよくある詭弁。
「そうした方がよい」ってだけの話を「必ずするはずだ」としてしまうのは、
常識的な前提とは言いません。
> =====
>>> 「大義」が「行為者が誰か」によってうつろうわけなどないでしょう。
>>
>> だから、批判するときは大義名分に従ってて、ポイ捨てするときはそうでないっ
>> てだけの話ですね。
> そ〜ゆ〜のは普通は「思っていても言わない」モンです。^_^;
何故でしょう?
> それとも、KGK氏はそういった身勝手さを推奨しているんですか?
普通は、大義名分に従うことはよいことだし、従わないことは悪いことです。
だから、その人は、あるときは正しいことをして、あるときは間違ったことを
したわけです。
それだけのこと。
>>> 一貫性に欠ける「社会的に正しい評価」なんてものが本当に存在するのであれ
>>> ば、具体的に述べてくださいな。
>>
>> そんなものがあるなんて、誰も言ってませんが。
> ないんなら、一貫性に欠ける評価は社会的に正しくないわけ。
この部分と、
> その批判は「自分自身を特別視し除外している」という一貫性を欠いた身勝手
> なものである時点で*社会的に正しくない*わけですよ。
この部分で、「一貫性」のかかる対象が違います。
前者は、普通に考えて、ある「社会的に正しい評価」と別のそれとの一貫性を
表現してますが、
後者は一人の人間が行なったある評価と別のある評価との一貫性になっていま
す。
「社会的に正しい評価」を二つ持ってきて、その間に一貫性がないってことは
あまりないでしょう。
しかし、一人の人間が行なった評価を二つ持ってきても、一貫性がない場合は
あります。
その場合は、大抵は、少なくともどちらかの評価が間違ってるってだけの話で
す。もう一方は間違ってる場合も正しい場合もあるでしょう。
なんで、この二つが違う性質を持ってるかと言えば、ある程度普遍的な法則で
あるのに対して、後者はそれを適用するという行為だからです。
その適用するという行為は正しくできることもあるし間違うこともあるので、
同じ扱いはできません。
>>>> 一貫して間違ってるより、そのときだけでも正しい方がいいでしょ?
>>
>>> 一貫して正しい方が良いでしょ?
>>
>> 一貫してなくても正しい方がいいです。
> それは「一貫していてかつ正しい」よりも「一貫していなくてかつ正しい」の
> 方が良い。 って意味ですか?
いいえ。
「一貫して間違ってる」より「一貫していなくてもどれか正しい」の方がよいっ
て意味です。
で、普通は二種類のことを一度に直そうとすれば、どつぼにはまるのがオチで
すが、一つづつ直すのはどちらかといえば容易です。
ですから、「一貫して間違ってる」ような場合は、「一貫していなくてもどれ
か正しい」ことを目指すのがよいでしょう。
もちろん、最終的には、「一貫して正しい」になった方がよいわけですが。
つまり、一貫することよりは、正しいことを優先した方が、最終的によいわけ。
--
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ. K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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