Re: Quiz_06iv2004(解答)
いろいろあってだいぶ間が開いてしまいましたが、M_SHIRAISHI さんが持ち出した
Bourbaki の話の続き(というより本題)です。
問題の箇所は:
「そして結局、一階の微分の使用が完全に正当化されるところまでは来たのであるが、
高階の微分の方は、用いると一応便利であるとはいうものの、今日に到るまで
本当の意味では再建されていない。」(村田訳(東京図書)p.231)
# なお以下との統一のため村田訳で記しましたが、ここの部分に関しては
# M_SHIRAISHI 訳にも格別の問題点はありません。念のため。
ここで問題とされているのは「ライプニッツ流の微分概念」ですから、
ライプニッツ(やその後継者)が何を構想し、実現したのか、それに対し
上の文が具体的に何を述べているのかを考えることになります。
ライプニッツは数学にとどまらず、人間の思考全般を記号化しようと企てた
「記号法の権化」とも言うべき人で、これは解析学において特に顕著です。
『数学史』においても多数の関連記述があります。例えば:
「...(前略)...ライプニッツは早くから、d と ∫ との反復による一種の
≪演算子法 calcul operationnel≫ の創造の方向に自分の進路を向けている。
そして自分の算法の演算子での結合と数の乗法の間の類似性を少しずつ
自覚してくると、うまいことに大胆にも、d の反復を示すために巾記号を
採用して、d を n 回反復したものを d^n と書いたり、さらには ∫ や
その反復に対して d^{-1}、d^{-n} などとさえ書いたりする。」(pp.230-231)
これからも読み取れるように、ライプニッツは微分・積分の記号演算化、言うなれば
代数化を目指しました。その道具立ても後世の微係数、微分商、導関数のような、
ある意味野暮ったいものではなく、dx, dy といった「微分」を直接使うものです。
=<注>=======
以前 M_SHIRAISHI さんが書いた:
> # ライプニッツの「y=xz のときには、dy=xdz+zdx である」というのは、
> 積の微分法 dy/dt=x(dz/dt)+z(x/dt) を導く為の一里塚に過ぎず、
を間違いと言いましたが、これはウェイトの置き方が完全に逆だからで、
ライプニッツにとっては d(xz) = xdz + zdx のほうが本源的、
dy/dt = x(dz/dt) + z(dx/dt) は使ったとしてもむしろ副次的です。
ライプニッツを振り回すにしてはゆゆしき誤解と言うべきでしょう。
============
またライプニッツの取り組みは、何か数学的な概念やアイディアがまずあって、
それを表現するための便利な記号を探すというよりは、記号そのものが
一人歩きして新しい結果を生み出しているようなところがあります:
「ただ驚くのは、上の象徴的記号〔d や ∫ のこと〕が初めて登場して以後、
それらの記号の運用規則を定式化するのに没頭したライプニッツが、
まず d(xy) = dxdy であるかどうかを自分で考え、自分で否定的な答えを出し、
さらにそこから前進して、やがて d^n(xy) に対する有名なライプニッツの公式
にまで一般化するに到ったという事実である。」(p.226)
これが「記号の形式的取り扱いに傾くという純ライプニッツ的な傾向」(p.231)
であり、オイラーでとりわけ顕著な「代数的形式主義」につながります。
代数的形式主義: 記号、式等を、本来の適用範囲を超えたところまで形式的に
適用していくこと。例えば実数に対する exp(x) を(無条件に)複素数に拡げた
exp(ix) を持ち出すなど。
一方で、Bourbaki の言う「正確な意味づけを持っていなかった」というのは、
基礎概念、とりわけ無限小についての明確な定義・意味づけが与えられていない
ことを主に指すのでしょう。例えば:
d(xy) = (x+dx)(y+dy)-xy = ydx + xdy + dxdy において、
dxdy は dx, dy より高次の無限小だから無視してよい。
といったような論法です。もっともライプニッツにすれば、本音としては
導かれた結果の妥当性・有用性自体が、出発点である概念の正しさを保証する、
といった考え方だったかもしれません。
# ここらは Dirac の δ関数や、Feynman の経路積分などと
# 共通するところがあります。
実際、ライプニッツ流の微分概念(や記号法)は、少なくとも1階微分の範囲では
非常にうまく機能しました。つまり微分の計算規則を定めた上では、dx や dy を
普通の変量のようにしての代数的な扱いが可能です。さらに記号法自体が、
概念整理や直観的類推、新しい発見の推進力となる力を有しています。
例えば d(u+v) = du + dv(微分の線形性)は一種の分配則と見なせます。
d(uv) = vdu + udv にしても、両辺を uv で割れば:
d(uv)/(uv) = du/u + dv/v
となって、dx/x という比についての加法⇔乗法の転換(積分すれば対数法則)
が見えてくる。これが (fg)' = f'g + fg' のような書き方ではなかなか見えない。
とりわけうまくいくのが合成微分の公式(変数変換則)で、
y = f(z), z = g(x)
したがって
dy = f'(z) dz, dz = g'(x) dx
ここで単純に dz を変数と思って代入操作を行えば:
dy = f'(z) g'(x) dx = f'(g(x)) g'(x) dx
が得られます。これを微分商の形に直せば:
dy/dx = dy/dz・dz/dx
のように高校でも見慣れた形になり、右辺の dz を約分することで左辺が得られます。
# なお、上では dy = f'(x) dx のような書き方をしてますが、ライプニッツ自身は
# どう書いていたのでしょう?(f'(x) は後世のラグランジュの記号)
# dy = (dy/dx) dx では気が利かないし。
高階の微分についても、
d^2 y = f''(x) (dx)^2、 一般には d^n y = f^(n)(x) (dx)^n
といった関係は当然知っていたでしょうし、1つの到達点が上の引用にもある
ライプニッツの公式です:
d^n(uv) = Σ_{k=0,..,n} C(n,k) d^k u d^{n-k} v (C(n,k) は2項係数)
余談になりますが、『数学史』p.223 には:
f(0) = 0 のとき、f(x) = Σ_{n=1, ...} (-1)^n f^(n)(x)/n! x^n
という、テーラー展開に近い公式が出ていて、ライプニッツはこれを
「差分法の≪極限移行≫」によって求めたとあります。
これを見ると、発想は Y.N. さんの Δ^n f と共通するものがあるのかもしれません。
なおライプニッツ自身が多変数関数、偏微分、全微分といった概念をどれだけ
踏まえていたかはわかりません。あるいは関数・変数という概念は、ライプニッツでは
まだ未分化だったのかもしれません。
で、ライプニッツがどこまで到達しえたかと言えば、本質的な部分では、だいたい上に
述べたような範囲ではなかったかと思います。特に1階の範囲ではうまく行った
「代数化」は、少なくとも単純な形では高階では行き詰ってしまいます。
これが端的に現れるのが、皮肉にも1階の場合にはうまくいった合成微分です。
実際、y = f(z) とすると:
d^2 y = f''(z) (dz)^2
ここで z = g(x) とすれば dz = g'(x) dx であり、これを単純に上に代入すると:
d^2 y = f''(z) [g'(x) dx]^2 = f''(g(x)) {g'(x)}^2 (dx)^2 ...(a)
しかしこれは正しくありません。直接計算すればわかるように:
d^2 y = [ f''(g(x)) {g'(x)}^2 + f'(g(x)) g''(x) ] (dx)^2 ...(b)
であり、f'(g(x)) g''(x) という余計な項が出てきてしまいます。
d^2 y の作り方を反省してみると、dy = f'(z) dz から
d^2 y = f''(z) (dz)^2 + d(dz)
であったわけですが、z が x の関数: z = g(x) とすると、今度は d(dz) が消えず、
dy は真に dz の関数になります。
ただし g が1次関数: g(x) = ax+b であれば、g''(x) = 0 で消えてくれます。
# この観点から、前の d^2 y = f''(x) dx^2 の説明を書き直したほうがいいかなあ。
言い換えると、1階微分は線型近似で、その範囲内では dx, dy 等を変数のように
扱えたのですが、2階以上になると2次以上の非線型項が効いてきてしまい、
y = f(x) に対して d^2 f を関数として扱うことはできても、変数として扱うことは
できなくなります。
話を先取りすると、これが Bourbaki の言う「用いると一応便利である」の意味で、
d^2y のような書き方は略記法としては使えても、それを用いた演算は限定されます
(微分の適用など:上記「ライプニッツの公式」もそう)。
余談ですが、これは微分作用素の計算、例えばラプラシアン:
∂^2/∂x^2 + ∂^2/∂y^2 = ∂^2/∂r^2 + (1/r^2)∂^2/∂θ^2 + (1/r)∂/∂r
において、右辺の1階項:(1/r)∂/∂r が出てくることにも対応します。
右辺はまた、
(1/r^2)(r・∂/∂r)^2 + (1/r^2)∂^2/∂θ^2
とも書けますが、r と ∂/∂r が非可換であることが1階項が出てくる原因です。
これは素朴な直観ではうっかりしたり、納得できなかったりするところで
(私もそうです)、勉強にあたってのハードルになります。
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改めて見てみると、こういった話を正面切って書いてある本というのが案外
見当たりません。以上は森毅:『現代の古典解析』、『ベクトル解析』などの
記述をベースにしています。
なお『解析概論』p.51 には上記の (b) 式が出てくるのですが、これが書かれて
いる意図が今一つよくわかりません。あるいは上で述べたようなことを
言いたかったのかもしれません。
微分計算は7章でむしろ本格的に扱われていますので、そちらも合わせて
参照すべきでしょう。
なお森は同書 pp.36-37 の導出を:「ピカール流のわかりにくい説明がしてある」
と書いています。
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以上を踏まえて冒頭の Bourbaki の文を振返ってみましょう。
まず前半の「一階の微分の使用が完全に正当化されるところまでは来た」から。
これについて、M_SHIRAISHI さんは:
> dy:=f'(x)・△x と定義したならば、dy=f'(x)dx は、なんとか、導ける。
という、途方もない解釈を示しています。これは数学についての著しい無知ぶりを
晒しているだけ過ぎませんが、本人としても理由づけが必要と思ったらしいのは
いいとして、言うに事欠いて「同じフランス人だから」とはなんともはや。
Nancago 大教授たる N. Bourbaki が聞いたら、最大の学問的侮辱と受け取るかも
しれません。
全くのナンセンスではあるのですが、あえて間違いを言うなら:
・そもそも dy := f'(x)Δx によって定義する必要はさらさらない。
・「『完全に』正当化される」の意味がまるでわかっていない。
もっとも前者は後者に含めてしまうこともできますが。
上述の森の言葉にもあるように、「dy := f'(x)Δx」から微分を定義しなければ
ならない必然性は何もなく、他の方法がありますし、むしろそちらのほうが普通。
『解析概論』にしてからが、まず接線の切片としての dx, dy を述べたあとで
(ただし、正確に言えば dy = f'(x) dx 自体が接線の定義ですから、傾きを f'(x)
とする無名直線の切片として)、改めて「dy := f'(x)Δx」を持ち出しているだけ。
だから特定の定義法がどうこうといった話ではない。
そして dy = f'(x) dx だけではそれこそ「便利な記法」に過ぎませんから、
それにきちんと体系だった基盤を与えるのでなければ「完全に正当化」
したことにはならない。
ライプニッツの1階微分の正当化は、皮肉なことに微分から無限小自体を
放逐する、言い換えればその意味を読み替えることで実現されます。
もっとも「読み替える」と書いたように、ある意味では発想の転換に
すぎないようなところもあります。
# それに無限小概念は、極限の枠組の中ではオーダー評価の形で
# 残りますし、インフォーマルには割と自由に使われます。
ライプニッツは dx, dy を x, y と同じ土俵の上で考えようとしたため、
誤差ε→0 となる極限としての、無限小の dx, dy を考える必要がありました。
しかし最初から線型近似と割り切り(あるいは局所的には線型関係が成り立つ
ものとして考え)、その代わりに dx, dy を x, y とは別の土俵(接空間)
で考えることにすれば、無限小を持ち出す必要はなくなります。
後はその上の(線型)演算で、誤差が悪さをしないことを確認すればいいわけです。
それを整備していったのが線型空間、ベクトル解析、微分方程式論、
微分幾何(曲面論から多様体まで)等であり、それがあって初めて
「完全な正当化」が達成されます。
構築性・体系性を重視する Bourbaki としては、
当然そういったことを視野に入れての話でしょう。
M_SHIRAISHI さんにはそういったことが何も見えていない。
(というより、たぶん何も知らない。)
========
続いて後半の:
「高階の微分の方は、用いると一応便利であるとはいうものの、今日に到るまで
本当の意味では再建されていない。」
これについても M_SHIRAISHI さんは:
> しかし、この定義からは d^2y=f''(x)dx^2 をはじめとした高階の微分が
> 導けるわけではない。
などというトンデモを述べています。
まず「この定義から」の部分が上述のようにすでに崩れていますし、
「高階の微分が導けるわけではない」とする「根拠」の、
Δx = x1-x がどーたらこーたら自体が支離滅裂で、
これだけでもすでに論評に値しません。
が、そういったことに目をつぶったところでなお、これは全然意味をなさない。
「d^2y = f''(x)dx^2」自体が「導けない」のであれば、
そもそも「一応便利に用いる」ことさえできません。
それに「本当の意味では再建されていない」というのは、部分的には、あるいは
意図したのとは違った意味での「再建」ならできるということですが、
それさえもできないことになってしまう。
だからこれは、Bourbaki の書いたこととは全く無縁のタワゴトです。
というわけで、M_SHIRAISHI 君は完全に用済みですのでここで退場してもらいましょう。
では Bourbaki が本当に言っているのはどういうことか?
まず「用いると一応便利である」については上で述べた通り。
そして問題は「本当の意味での再建」がどういうことか、です。
これについて、1階微分の場合とは明らかに事情の違いがあります。
1階微分の場合、ライプニッツが実際に実現しえたものに対しての
根拠付けが行われるという意味での「正当化」がなされます。
しかし高階微分では、ライプニッツが実現しえた範囲自体が極めて限定されており、
「便利な記号法」といったレベルでの「正当化」は行われても、
それ以上に「正当化」すべき対象そのものがありません。
だから「再建」とは言っても、対象は実現しえたものというよりは、
ライプニッツが「構想」したものと考えるべきでしょう。
「構想」であればこそ、「本当の意味での」かどうかも問題になりうるわけです。
ではライプニッツの構想とは何でしょう?
これには(重積分などとも絡んで)外微分の体系なども視野に入るかもしれませんが、
本筋は微積分の完全な記号的な算法化、もっと限定的に言えば、
微分方程式の解法の算法化ではないかと思います。
そうであるなら、確かに様々な解法の研究、とりわけ線型微分方程式に対する
演算子法によるアプローチなどがあるとはいえ、完全な意味での解決には
至っていない(そもそも到達可能かさえ不明)、
その意味で「本当の意味での再建」はなされていないとは言えます。
もちろんこのあたりは推察にすぎず、別の解釈も可能ではあるでしょう。
ただ、M_SHIRAISHI 論はそういった議論以前の、門前払い扱いであるのは
間違いありません。
(平賀)
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