KGK == Keiji KOSAKAさんの<bs6lgj$mck$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>>>> で、その行動規範がすぐれていれば、真似する人が多くなり、「多くの人が共
>>>>> 有する行動規範」となるわけだ。
>>>>> それが、普通の意味での社会的行動規範につながるわけだ。
>>> 
>>>> そんなこと言ったら「現在通用している行動規範が即ち優れた構想規
>>>> 範」ってなことになってしまいますよ。喫煙迷惑が発生している(と主張され
>>>> ている)現在の行動規範がね。
>>> 
>>> 何故でしょう?
>>> 優れた行動規範が通用する行動規範につながるストーリーがあるってことは、
>>> 優れてない行動規範が通用しないことを意味しませんが。
>
>> 優れていようがいまいが通用するのであれば「真似する人が多くなるか否か」
>> は何処に違いがあるわけですか?優れていない行動規範を真似する人が少なけ
>> れば通用するようなものには成り得ないのではありませんか?
>
>「優れている」というのは真似をする理由になるけど、真似をする理由になる
>ものは他にもあるでしょうね。

んだから、

>>>>> で、その行動規範がすぐれていれば、真似する人が多くなり、「多くの人が共
>>>>> 有する行動規範」となるわけだ。

というKGK氏の主張は正しいとは言い難い話だよね。「優れている」としても
行動規範になるとは限らないのだから。
#で、現在通用しているモノを自分の都合によって「優れているから」と「そ
#うじゃない」にわけているだけなのでは?


>>>>>> そして、社会的な規範(かそれに類するもの)が存在しない以上、「迷惑が発
>>>>>> 生した」という判断も同様に個人的なものでしか在り得ないわけ。
>>>>> 
>>>>> それは「行動規範」で決まるものじゃないでしょ?
>>>>> 「結果に対する判断基準」で決まるもの。
>>> 
>>>> 「行動に対する判断」だろうと「結果に対する判断」だろうと個人的である時
>>>> 点で何の違いもない。どちらの判断が優越するというものではありません。
>>> 
>>> いいえ。
>>> 「迷惑が発生したかどうか」というのは「結果に対する判断」です。
>
>> その判断は*誰の*判断なんですか?
>
>「結果に対する判断基準」があれば、誰が判断しようが同じことですね。
>どっちにしても行動規範で決まるようなものではない。

その「結果」ってのが「俺様が迷惑を感じた」だったりすると「誰が判断しよ
うが同じ」になんてならんでしょう。だからこそ「その判断は*誰の*判断なん
ですか?」と問うているわけ。


>> 「煙草だけは特別」というのならともかく、あらゆる物事を「常に変化して
>> いる」という前提で扱うのは煩雑だし、事実上不可能でしょう。
>
>「結果に対する判断基準」が比較的ゆるやかに変化すると仮定すれば、行動様
>式が変わったとしても、それに適した行動規範は、ほぼ自動的に決まります。
>例えば、喫煙者が増えようが減ろうが、また、どのような喫煙行動だろうが、
>「ある一定濃度以上の煙草煙が迷惑になりやすい」といった形の基準がそう変
>化するわけではないでしょう。

そりゃ行動規範そのものであって「結果に対する判断基準」ではないでしょ
う。なんてったって「なりやすい」って話だし。

-- 
wacky