KGK == Keiji KOSAKAさんの<bjcdq0$doe$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>サブジェクトにした「責難は成事にあらず」ってのは、「人を責め、非難する
>ことは何かを成すことではない」という程度の意味です。
>誤りを指摘するだけで、具体的にどこがどのように誤りで、どういう方向で解
>決すればいいのかを言わないってのは、非常に簡単なことですが、それは「何
>かを成す」ことじゃないんですね。

「自己棚上げで他者を非難する」ことが「全体として誤り」と言っているんだ
から、*ではどうするべきか*は自明じゃないですか?

#では、自明でない人の為に…。

たとえば、「自分は空き缶をポイ捨てしながら他人の吸殻のポイ捨てを非難す
る」という誤りを正すのであれば
1.空き缶のポイ捨てを止めた上で他人の吸殻のポイ捨てを非難する
2.空き缶のポイ捨てを止められないのなら他人を非難しない
という方法が考えられます。
つまり、
1.自分への要求レベルを上げる
2.他者への要求レベルを下げる
事によって*自他への要求レベルを一致させる*ということ。
要するに「公平であれ」ってことです。
#更に言えば、この要求レベルは社会的に要求されるレベルの近傍にあるべき
#でしょう。


>> 勿論、「泥棒」は行為ですし、「盗む」という単独の行為について「その行為
>> を取り巻く状況等の全体を考慮した評価」を指して「全体への評価」と言って
>> います。これはKGK氏が行っている「行為そのもの以外を一切切り捨てた評価
>> →部分的評価」と対を成すものです。
>
>部分的評価は「行為そのもの以外を一切切り捨てた評価」ではありません。
>その部分の評価に影響するもののみを取り入れた評価です。
>そういう評価をするのに有効な手法が、styleの方でもやってるような、「他
>のパラメータを変えず、その部分だけを変化させて評価する」というやつです。

で、そこら辺の「取り入れ」方が恣意的なんで問題なわけです。
正当防衛では都合良く「取り入れ」たものが「消火」ではダメで、実質的に
「行為そのもの以外を一切切り捨てた評価」であるといったようにね。
#基本的には、評価の結果として「影響するか否か」が分かる筈なのに、評価
#の前に*恣意的な選択*が行われている。それはオカシナ話だよね。


>> 繰り返しになりますが、評価の対象となる行為について、その行為を行うにあ
>> たって前提となる行為があったとしても、それを「行為を組み合わせた」と詰
>> るのは誤りでしょう。全体となった行為があったとしても、それは「その行為
>> を取り巻く状況等」の一部でしかないのだから。
>
>その状況のなかで、対象となる行為の評価に関係しないものを混ぜても意味な
>いでしょう。

「殺人」については「正当防衛」を混ぜるのに、「消火」については「放火」
を混ぜない(無批判に評価に値しないと断ずる)というのは少々アンバランスに
感じますね。KGK氏の判断基準が全く見出せません。

-- 
wacky