In article <4177C935.DB09B29C@cool.odn.ne.jp> Masahiko_KODERA <" kodera_m"@cool.odn.ne.jp> writes:
>> # 都バスの「東京駅南口」停留所は丸ノ内南口に在る

>ですね。東急が山手線各駅を跨いでの免許乗り入れ路線を多数持っていたころ、
>丸の内側というのは東京駅のデフォルトなのか?と解釈していました。

まあ、八重洲は「裏口」ですから。
歴史的には、丸ノ内側にしか口が無かった時代が有ったそうです。八重洲口が
立派になったのは戦後だそうで。大丸が東京に「帰って来た」のも戦後じゃな
かったかしら。

>ふと気付きましたけど、都電全盛時代は両側依るような系統は...ないだろう

戦後系統には有りません。丸ノ内側は、永代通りから曲がって来る系統が二つ、
31番と28番だったかな、有って、北口・南口の二停留所を経て鍛冶橋通りの都
庁前 (昭和18年迄は市役所前) 迄行ってました。
八重洲は、外堀通り沿いに17番が通ってました。神田橋方面から八重洲口に停
って、数寄屋橋迄行ってました。
戦前は知りませんが、多分無いと思います。

>なぁ...八重洲から日本橋→内側とか、南を馬場先門回ったとしても、そこか
>ら丸の内口の前に回り込むとも思えないし。乗り換え有りだと、そんな移動す
>るような「せっかちな江戸っ子」はいなかったでしょうね。

東西は上の通りとして、永代通りは呉服橋と丸ノ内一丁目が南北を通る電車と
の交差点、鍛冶橋通りは鍛冶橋と都庁前ですか。いずれも一停留所間です。
丸ノ内一丁目は31番・28番が永代通りから南に曲がって来ますが、他は曲がる
電車は無かった筈。31番は、江戸通りから永代通りに右折して、ガード潜った
らすぐ又左折して東京駅でした。

>南口側の不便さと東京中央郵便局の位置関係とか関係してるのですかね。

北口だって、永代通り迄十分遠い様な...
江戸時代の地図で見ると、呉服橋 (永代通り) と鍛冶橋 (鍛冶橋通り) の間に
橋は無かった様です。八重洲橋ってのは幕末か明治に架かったみたい。結構後
迄しょぼい木橋だったてえ話も聞いた事有ります。

>ついでに、東京駅南口北口というと、歴史的にかなりの間、乗車口と降車口
>に分けていましたよね? これはこれで知った時には、また人の流れを随分
>強制的なものにしていたもんだと思いました。

途中から変えると抵抗が強いんでしょうが、最初からそう云うもんだと思えば
問題無いでしょう。電車 (街鉄〜市電) もそれを見込んで二つ停留所有ったん
でしょうし。
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                                椎野正元 (しいの まさよし)