古寺です。

Shiino Masayoshi さんwrote:

> >丸の内側というのは東京駅のデフォルトなのか?と解釈していました。

まあこれは、都の歴史授業さえ受ける前の小学生の印象ってことで(^^;
 
> まあ、八重洲は「裏口」ですから。
> 歴史的には、丸ノ内側にしか口が無かった時代が有ったそうです。八重洲口が
> 立派になったのは戦後だそうで。大丸が東京に「帰って来た」のも戦後じゃな
> かったかしら。

車両基地付きで東海道線の行きどまりな起点として出来たのだっけと書きました
けど、新幹線用地やら八重洲口の今の規模の用地は東京機関区や客車区だったよ
うですね。当時の常識だと貨物施設すら有っても不思議はないところですが、そ
こは貨物は新橋(汐留)に残すという点で画期的な旅客専用駅だったのだろうなと
思います。

 
> 東西は上の通りとして、永代通りは呉服橋と丸ノ内一丁目が南北を通る電車と
> の交差点、鍛冶橋通りは鍛冶橋と都庁前ですか。いずれも一停留所間です。

せっかちさというか、一停留所×2で二回お金を払うくらいなら(昔の大方の人
は)スタスタって方が妥当でしょうか?

#東京って徹底して乗り継ぎは打ち切りだったような認識。

> >南口側の不便さと東京中央郵便局の位置関係とか関係してるのですかね。
> 
> 北口だって、永代通り迄十分遠い様な...

まあなんか、東西線的に慣らされちゃってますけど、丸の内側で見ると距離を
感じますね。

> >ついでに、東京駅南口北口というと、歴史的にかなりの間、乗車口と降車口
> >に分けていましたよね? これはこれで知った時には、また人の流れを随分
> >強制的なものにしていたもんだと思いました。
> 
> 途中から変えると抵抗が強いんでしょうが、最初からそう云うもんだと思えば
> 問題無いでしょう。電車 (街鉄〜市電) もそれを見込んで二つ停留所有ったん
> でしょうし。

これも出してしまったと思いましたが、乗降分離は電車乗り入れ時から(以降)
だったっけか?とも思いましたが、最初からで合ってましたっけ?
この話を歴史的な文で最初に読んだ時の記憶では、電車の駅と、あと南北それ
ぞれ通路の作りが乗降分離→やめの時だったかに影響を受けた話が有ったよう
な記憶が...ホーム間乗換を除くと階段の上り下りの需要が偏るから手すりが
どうの...程度だったかな? エスカレーターも無い時代の話だし、今一つ内容
を思い出す心当たりが有りません。

#改札構造は、精算口有無とか有ったかも。

ちなみに駅の話として知る以前に、子供の頃読んだ鉄道公安官か、あるいはもっ
と古い小説かで、乗車口降車口な記述を注釈無しに見た覚えが有って。

#なんだ、それなら中央口が一般人お呼びでないのは昔からか?とも(^^;
##それの現況も知りませんが。