"Shinji KONO" <kono@ie.u-ryukyu.ac.jp> wrote in message
news:3989196news.pl@insigna.ie.u-ryukyu.ac.jp...
> 河野真治 @ 琉球大学情報工学です。
>
> In article <3fb82228$1_5@127.0.0.1>, Miya_S <kmiyashita@firemail.de>
writes
> > あなたの、立場が記号学か記号論に立っているだけの話でしょう。
> > 論理学はそのような立場のものでしかないと断定するのは違うと思いま
> > すね。
>
> 言語を使って学問をする以上、記号論があらゆる学問の基本にある
> のは仕方がないです。もちろん、記号論に収まらない範囲も研究す
> るわけだけど、それでも記号論に反するものが出て来るわけではな
> いですね。
>
> この言葉で表された「もの」と「言葉」そのものを区別するのは、
> フレーゲ以来の基本的な立場です。それをおかしくすると、いろん
> な矛盾が出て来てしまう。一般意味論は、それをもう一度曖昧にす
> るという宗教的な活動でしか無い。そこが時代遅れなわけさ。

話を変えましょう。

記号という様相(モデル)に置き換えることで自然言語での限界を論理的に、数学的
に解明しようとする立場はあるにはあるが、いくら駆使したところで、事実から価値
を演繹できるわけではないでしょう。自然主義の誤謬は、価値が経験的事実に還元で
きるとする価値一元論の立場だとおもいます。
河野さんは、「価値判断は事実判断に還元できるか否か」という設問に対して、どう
いう立場なのでしょう。「主観説」と「客観説」に分けたとき、客観説の立場のよう
ですが。客観説をとるなら、自然主義と直感主義のいずれかだが、自然主義?。自然
主義なら還元論の立場。
あるいは、河野さんは、記号論理学の世界を念頭に話を進めているのでしょうが、価
値という問題に対しては、学問的でないという立場なの?だから関知しないという。

いつも思うが、価値の問題についての立場をまず、お聞かせいただきたい。



 > まさに、記号学、記号論、記号・・・とうレベルでの矮小化した視点で
> > す。それでは、価値は論じても、池の中ですよ。
> > そもそも、記号論理学は、前提に価値を持たなければ、いかなる価値も
> > 結理論に出せない。そんなものいくら論じてもアリストテレスの価値の
> > 問題は、洗い出せないね。
>
> 人間の論理的な認識が言語で行なわれている以上、価値あるいはも
> の自体は、言語に先行して論理的に認識することはできないです。
> 一方で、言語を伴わない認識は、行動とか反応に結び付いていて、
> 機械的なものに過ぎません。

フレーゲの古典的説例でいえば「明けの明星」と「宵の明星」はその外延は一にする
が内包は異なる。
外延は記号外在的な事実への考慮を要求するが、内包はそうは行かない。内包ともな
れば、記号論理学での分類はできても内包そのものの価値は、価値の前提を必要とす
ると、二元論の立場からはいえますよね。



>
> そこから、愛だの神だのを引き出すためには記号的なものをもって
> こざるを得ないわけだけど、それらが記号に先行して存在するって
> 思い込んでるのが一般意味論だろ?

この河野さんの「記号」には内包は含んでいるの?外延のみ?
外延は一でも、内包は無限。記号論理学で、記号化は出来ても、価値への考察は、前
提となる価値がなければできない。記号論理学はそうちですから。「価値判断は事実
判断に還元できるか否か」ということになるのだけど。記号論理学の優秀さををいく
ら支持してもいいが、いくら優秀でも、事実から価値を演繹できるとする立場、つま
り、事実に還元できるとする立場かどうかはまた別の問題だと思いますね。一般意味
論は、価値の問題にもろに立ち入っている。内包の無限性に立ち入っている。外延の
同一性から内包の同一性を結論することは許されない。
現代の記号学(semiotics)においては三つの基本要素とその関係が扱われ
る。記号そのもの、それがあらわすもの、記号使用者。
記号論理学は万能ではなく、記号使用者(たとえば人間)がかかわるところに表出す
る価値判断を捨象しなければ、矛盾が出てきて記号論理学上すっキリしない。よっ
て、価値判断など無用の長物であり、学問的でないから関心がない、あるいは、どう
でもよい、というのが河野さんのたちばなら、なんとも魅力のない系?だね。


>
> > 最後にあなたにお伺いする。
> > コンピュータは自分の正しさを証明できるとでも?
>
> コンピュータの動作は有限なので、自分の正しさをより大きなコン
> ピュータを通して証明することが出来ます。そんなことを知らない
> の?

大きなコンピューターは、何を通して自分の正しさを証明するの?
もっと大きなコンピューター?じゃ、もっと大きなコンピュータは、もっともっと大
きな・・・

河野さん、それは、コンピューターが自分の正しさを証明してることにはならない。
内包としての要素であるコンピュータをいくら無限にあげつらっても。外延としての
コンピューターについて話をしなければ。外延としてのコンピューターは、人間と
違って、価値を前提に組み込んでやらなければ判断できない。現象学でいえば、内在
がない。一般意味論には、現象学で言うところの内在がある。一般意味論を、記号論
理学の言語的なモデル化などの面でのみみて、時代遅れというのは、私には随分と違
うと思えるのですがねぇ。

>
> Turing Machine とか一階述語論理そのものは有限ではなく、アレ
> フ0の無限を含んでしまっているので、アレフ0の無限しか扱えない
> 状況では自分自身の正しさを証明することはできません。一方で、
> より高階の無限が扱える状況(例えば、超越帰納法が使えるような)
> では、それらの正しさを証明できます。実際、一階述語論理の完全
> 性の証明とかもあるわけだからさ。

結局、メタ・フレームということになるのじゃありませんか。超越・・・。
ここには価値の前提群が想定されている。入力に価値がなくても、構造に価値の前提
があれば同じこと。これもまた、事実への還元とはいえない。

>
> > アリストテレスのここでの問題は、自分の認識の正しさを論じているも
> > の。コンピュータの構造論ではないが。
>
> 論じるのと、限界がどこにあるかを明解にするのとは大きな差が
> あります。一般意味論は、そのあたりではっきり後退していると
> 思う。

限界は、記号論理学の構造の問題。構造的限界。一般意味論の後退?後退という言葉
そのものが大変な価値だと思うけど。一般意味論は項のさんの価値判断をも、包み込
んでくれていると思いますね。

最後にもう一度、はじめにお聞きした価値に対する河野さんのお立場を、よろしく。