06:40、定刻より2分遅れで秋田駅着。
ぽぽろーど内がいきなり寒いですね。でも幸いにして、雪はほとんど降っておらず、足元の雪と氷に気をつければさほど大変な道ではありませんでした。久々の帰宅クエストを終了します。
ゆっくり休む1日、ではなく、本拠地のPCを交換するという使命が待っています。今まで使っていたPCは8年近く前に買ったもので、最近電源もイカレたようですし、色々とガタが来てしまっていましたから。PC連動対応電源タップの連動機能が上手く働かなかったり、マウスのケーブルが引っかかって厄介なので余っていたBlueToothマウスを使おうとしたら途中で動かなくなったり、旧PCのHDDからデータを掘り出す際にパーミッションがなかなか取得できなかったり、苦労する場面もありましたが、半日かけてどうにか完了しました。ソフトウェア絡みでの問題はこれから出るでしょうけど。
午後になると、雪が降り出しました……。
1日で結構雪増えたよ……。除雪車が何度か近所を通りました。
本拠地のPCは、画面出力のI/FがアナログRGB(HD D-sub 15)とHDMIの2系統なんですが、ディスプレイの入力I/FはHD D-Sub 15とDVI-Iの2系統です。なのに添付されてたケーブルは、何故かHD D-sub 15のものとDVI-Dのものの2本。どういう組み合わせですか!
という訳で、父の運転で(※降雪期は水野はハンドルを握らせてもらえない)、COMへ行ってきました。恒例初売りでごった返してましたねー。ここでHDMIケーブルは手に入ったけど、ついでに新調しようと思ってた葉書作成ソフトの類がほとんど無かったので、そのままケーズ電器へ移動。こっちにも数は無かったですけど、COMよりは多かったのでそれで選んでおきました。ここで買わないと次買える店は結構遠いし。
これでケーブル交換して、ソフトウェアの設定も終えて、PC関係はほぼ終了。今日はそれ以上の活動無しです……風雪強くて出歩きにくくてですね。加えて、夜になる頃には体調悪化しました。鼻水止まらず喉痛く……
いや別に熱は出していないと思うんですが(← 計ってない)、鼻水と喉の痛みは相変わらず。外の地吹雪も酷いし、今日も初詣巡りは自粛します。
関東ローカル駅伝大会をテレビで観ていたんですが……なんかやたらと、出身高校が宮城県や秋田県の選手が多くありませんでした? 応援しようかどうしようか迷いましたよ(謎)。もっと苛酷な条件で走ってみませんか……五能線駅伝とか、中山道(旧道)駅伝とか。うん、「駅伝」の本来の意味から考えると、街道を連絡していくのは観てみたいですね。阿仁街道ならなお良し。
そして、本日……「チャリン子の旅 第1旅 中央本線全駅訪問(2日目編)」の重大な誤植が、レギュラー登場人物の人(激謎)から指摘されました。節番号が、東京都編は1〜31、1日目編は32〜50なのに、2日目編が32〜53になってるー!? ぎゃああああ、塩尻駅が72番目だってことは暗記しているくらいなのに、何でこんな基本的なところで間違ってるんだ私! しかもこれ、100部作ったから、当分改版はないんだよなあ(汗)。うう、誤植訂正を出した上で、シール貼りますか。
帰省したら、初詣の感覚で、身近な割にあまり行ったことの無い神社を沢山巡ろうかと計画していたんですが……天気がひたすら十二女^H^H^H吹雪吹雪吹雪で危険過ぎること、風邪ひいたこと、更に昨晩からは頚椎症も発症したこと(泣)で順延です。
で、代わりじゃありませんけど、持ち込んでいた「gdgd妖精s」を上映。このgdgdっぷりは、還暦超えて久しい両親にも好評でした。持田房子や非実在おじさんは気持ち悪いって言ってたけど。「大人のピタゴラスイッチ」観た直後ということもあり、「gdgdスイッチ」もウケてました。
気温は相変わらずの真冬日、天気は相変わらずの雪ですが、今日は比較的風が弱くなっています。今日こそ、神社巡り! 身近な神社、秋田市旧市街の神社を色々巡る計画です。但し、メジャーかつ何度も行ってる二社、太平山三吉神社と彌高神社はパス。
明田外旭川線は異常な拡幅をされたけど、わかば寿司線(仮)は相変わらずで安心できます。とっても足下が滑りますけどねー!
秋田岩見船岡線を超えて手形山崎町に入ったら、更に雪が深くなったような。この区画は住居表示実施地区なのに、未実施地区より道が狭いからね(いや、住居表示って必ず再開発を伴う訳ではありませんが)。
久々にやって来ました秋田大学教育門。レストランエムも何度か利用してます(その隣のコクヨはもっと)。さるインターの人達元気かなー。
ここから赤沼街道(秋田岩見船岡線旧道)を進みます。途中、電柱に太子神社のどんと焼案内が貼られてたけど……こっち側も太子神社の氏子ってことなの? 太子神社、この後行くけど、距離的に遠いような。
本念寺の手前、赤沼町内会館方向へちょっと入ったところに、闐信寺方面へ向かう上り坂がありここを登ります。今は雪が積もってて凄く歩きにくいですが、雪が無くても急勾配で歩きにくい道です。
おー、たろんぺ良く育ってる。
車道に出て更に道なりに登った先に、神社巡り最初の1社・若宮八幡神社があります。宮司さんなのか、参道を除雪している方が居ました。邪魔になりそうだったので手早く参拝して退散します。
ここ、手形山の南側斜面なので、植生が薄い今の時期は結構見晴らしが良いです。X-S1のパノラマ撮影してみました。
山腹を巻くように続く車道を歩いて行くと、闐信寺(てんしんじ)が現れます。神社ではないので参拝対象ではありませんが、佐竹義重公の菩提寺ということでいずれしっかり見学したいところ。
一旦山麓まで下りて、深田の裏を通って行くと、太子神社へ登る階段が……除雪されてませんね。踏み跡はあるから、先人に従います。創建年は不明だそうですが、歴史を感じさせる重厚な宮構え……なのに鳥居手前の金属製ポールが雰囲気壊してるなあ。これ旗とか立てるもの? 手形部落会からの奉納とありますから、地元ではこれで良いと思ったんでしょうか?
こちらもまた、高台からの風景を。住宅地を挟んで正面にいくつかビルが見えるのは、秋田大学です。
再び手形山を下りて、秋田大学手形キャンパスの裏手を歩きます。途中に「平田篤胤墓入口」という標識があります……この先に手形山鬼子母神堂があって、神社扱いなんですけど、今回はパス。ちなみに、佐竹義宣公の正室の菩提寺である正洞院の跡地もこちら。
鉱業博物館入口から、手形山を離れて旭川方面へ向かいます。
途中に秋田大学の鉱山門があります……おや、自転車に関する掲示が。って、この図だと鉱山5号館や6号館(情報工学科)の辺りに自転車停められないことになるんですか!?
次は田中の神明社、ということで、鉱山門から秋田八郎潟線に出ます。ここから正面の小路に入ってすぐ、と記憶していたのですが、いざ進んでみると、僅かに数歩で見えて来たのは、神社の裏手。はわわ、一本違ってた。
田中と言えば手形の中心集落ですから、田中の地内にある唯一の神社たるここは住民の信仰篤かったことでしょう。ということで、田中ではないですが手形住まいの者として一度は詣でねば。しかしここは完全に除雪されておらず……凹凸はあったから、少なくとも2日くらい前には除雪されるか人通りが多いかだったんでしょうけど……膝までとは言いませんがスノトレよりは高いところまで、埋まりながらの参拝になりました。
田中の中心を通る道を歩いて、搦田方面へ向かいます。この道、江戸時代の絵図にも描かれている、古い道です。
暫く進むと、旧県道に合流します。このすぐ北(写真右に見えている)が旧県道と現県道の合流点の、からみでん交差点です。この付近が搦田の中心集落があったところですが、今は新興住宅街……
そんな搦田の中心にあるのが岩戸神社。狭いというかコンパクトに折り畳まれた感じの社です。何が折り畳まれているかって、参道がね……鳥居から本殿まで、参道が正に「折り畳まれている」んですよ。
「屋根からの落雪注意」と言われても、これどう注意すれば?(^^;;;
旧県道で南へ戻ります。途中、西側の建物の背後に旭川の堤防が見えるので、現在地が把握できますね。途中から堤防が曲がって行きますから。で、手形休下町、東中の脇から川の方へ向かうと、中島鉄橋のすぐ袂で第一新中島踏切を渡ります。
これ渡るのも久しぶりです。……あ、中島鉄橋を渡るのが久しぶりってことじゃないですよ!? 鉄道橋を渡っちゃ駄目です。
踏切の先は、旭川の堤防上を辿る道です。ここ、以前は路上にイラストがペイントされていたため、私や母は『お絵描き道路』と呼んでいました。消されて久しいですけど。
ふと振り返って中島鉄橋を見ると、鋼製桁に諸元が書かれていました(上り下り各4径間の全部にありました)。正式名称は「旭川橋梁」なんですね。広報とかでは必ず「中島鉄橋」って書かれていますけど。
新中島(下中島)を挟んで北ノ丸を眺めると、山腹に坂道が見えます。八幡坂、手形上町と並び、北ノ丸へ上る第3の道なんですが、いつからあるのかが判りません……明治初年時点で存在しないのは間違いないんだけど。あと、手形上町側の内堀跡から上る、第4の道もあります。
新中島橋を渡り、保戸野へ向かいます。これ、旧中島橋があるってことではなく、付近の旧地名が『新中島』なんです(現在は千秋中島町)。しかし……こんなに橋脚細い橋だったんだ。
旭川に白鳥来てた。
旭川橋梁にキハ40(男鹿線)来てた。
旭川の対岸は保戸野金砂町。町名の由来である金砂神社へやって来ました。町名はみんな知ってるだろうけど、神社はあまり目立ちませんね。いや、広い敷地の中にぽつんと建っているのはある意味目立ちますが。1956年に焼失した影響かな?
ちなみに、保戸野金砂町が久保田城下町の北端に当たります。旧保戸野金砂町は現在の区画よりかなり狭く、現在のランドマークである秋田工業高校は旧町には一切含まれません。
金砂神社の前を過ぎてすぐ、旧保戸野八丁新町上丁、更に旧保戸野八丁新町下丁となります。旧町名の解説柱は上丁・下丁をまとめて扱っていますね。西側に旧泉字八丁が隣接していることに由来する町名で、泉の八丁は天徳寺から八丁(約872m)であることに由来するそうです。実際には1kmくらいありますが。
旭川の対岸は、まだ続く千秋中島町。低地だった旧新中島から、高台の上中島へ移った頃です。大きな建物は、秋田北高校。2008年に女子高から共学になったばかりのVANDREADな学校(違)
突き当たりの丁字路をちょっと左へ行くと、バス通りに出ます。ここは菊谷小路、南端の中通町に「菊谷酒店」という蔵元があったことに由来します(北端のここは保戸野愛宕町)。1945年に端から端まで家1軒分取り壊して拡幅しているため、もはや『小路』という道幅ではありませんが、今でもバス停などに名前を留めています。
現在の町名では、道の左側が保戸野中町、右側が保戸野原の町。ということでバス停は『原の町』です。ここ、小学から中学にかけて、私の学校の最寄りバス停であり毎日下車していたところです。……今や1日1本だけ、それも夕方の秋高スクール便だけだよ……。
反対側のバス停時刻表を望遠で撮ってみると……楢山大回線と秋高スクールの、各1本ずつ。ううっ、私が通学で乗っていたのは、楢山大回線の逆方向である手形大回線だったんですが、現存しないんですよね……(涙)
無名交差点ですが、千秋トンネル通り・保戸野学園通りという愛称を持つ道路と交差します。この先の菊谷小路は、秋田県道233号土崎港秋田線となります。正面のマルイ第2ビル(って地図見ないと意識しない名前だけど)は、それこそ中学の頃の遊び場でしたなー。
この交差点を境に、道の右側(マルイ第2ビルのある区画)は保戸野すわ町となります。道を渡ってそっちへ行きましょう。
交差点上で千秋トンネル通りの方を向くと、正面に神明山が聳え、新兵具隅櫓(御隅櫓)が見えます。現在、久保田城下を半周している計算です。
少し先にすわ町バス停があります。原の町とはうって変わって、停車便の大変多いバス停です。このほとんどがさっきの交差点で原の町とは違う方向へ行くって事です……。
では原の町から来る側のバス停(ここから乗ったことも何度かあります)はというと。
……!?
臨時停留所!? 一体何がどうしたと!? ……周辺に他の『すわ町』バス停があるんだけど、そこ通ってからここへ来る便ばかりだとか? でも秋田中央交通の路線図を見る限り違うんだけどなあ……
かなりしおしおになりつつ、この先で菊谷小路を離れ一本隣へ向かいます。
一本隣にあるのは、保戸野小学校。ここ来るの本当に久しぶり(註: 水野の出身校ではありません)。今でもあのストーブ使ってんのかな?
解説柱にある通り、保戸野小学校の地は保戸野愛宕町の名の由来である愛宕神社があった場所です。ただ、旧保戸野愛宕町西丁ってなってるけど、それはもうちょっと右側までで、標柱が立ってる付近は既に旧保戸野諏訪町です。
ということで、保戸野諏訪町を歩きます。この付近はほぼ、藩政期からの区画がそのまま残っている筈です。
歩いた先にあるのが、旧保戸野諏訪町の由来にして現在の保戸野すわ町の由来でもある諏訪……え、諏訪神社が参道手前に!? ちょっとちょっと、これ何? 境内社なの? 境内の外にあるけど? あー、うーん、……数えない。
こちらが本当の町名の由来である、諏訪愛宕神社。諏訪神社に、保戸野小学校校地にあった愛宕神社を合祀したものです。旧町名の解説柱は、雪を踏み掘らないと読めなかった(^^;;; 境内社として九右エ門稲荷神社があります(数えません)。
保戸野諏訪町を進んで行くと、通称「通町」という繁華街に出ます。ここを左右に通る道が通町筋で、久保田城下の旧羽州街道になり、即ち旧国道です。保戸野は内町(侍町)でしたが、通町から先は外町(町人町)になります。ただ、この付近の旧町名は「大工町」ですけどね(江戸時代中期頃、下通町が大工町に編入された模様)。
正面へ進むと上米町一丁目ですが、ここは左折して通町筋を歩きます。
通り1本分進むと……手前が大工町、正面が中通町、左手が菊谷小路を経て保戸野本町・保戸野表諏訪町下丁(内町)、右手が上亀ノ町。本来、菊谷小路と亀ノ町筋はクランクだったんですが、菊谷小路の拡幅と亀ノ町筋の交差点改良で、ほぼ直線化してしまってますね。亀ノ町側の痕跡は判りますが。
中通町の解説柱……ま、また、手も足も出ない場所にっ……!
上通町の解説柱は全部読めますね。中通町のも、ほぼ同内容だったと推測されます。
上通町解説柱の向かいに、通町商店街の案内地図がありました。この絵、倉田よしみ氏ですね。氏は秋田市出身で、郷土史漫画も描かれています。
上通町解説柱と案内地図があるところは、上通町街区公園となっており、それ自体がここ招福稲荷神社の参道です。「招福狐の行列」という祭を10月に行っているそうです(古来からの伝統ある祭ではないようですが)。
通町筋に戻ると、七竈が綺麗に実りつつ、雪に埋もれていました。
旭川岸まで来て、通町橋を渡らず右へ折れます。ここは川反筋、現在では秋田市でも有数の飲食店街です。風俗店街という側面もありますが。昔、納入業者として良く来たんですよ。客として来たことはほとんどないですけどねー。
そんな川反一丁目にあるのが星辻神社です。外町の神社ってなかなか行く機会が無いけど、流石に町人町だけあって実はあちこちに社があるんですねっと、地図を見て思いました。まあ、今回行くのは、招福稲荷神社とここ星辻神社の2社だけですが。
そして、もはや「存在がかろうじて判る」という程度でしかない解説柱……(^^;;;
一丁目橋を渡って土手長町上丁(内町)へ出、広小路へと進みます。広小路はアーケード街なのですが、シャッター通りである現状の広小路商店街では維持管理が困難になってきたため、撤去が確定しているんですよね……。
昨年、中通一丁目の再開発が終了し開業した『エリアなかいち』のイメージキャラクター、与次郎のペナントが多数ありました。久保田藩初代藩主・佐竹義宣に仕えた伝説の飛脚・狐の與次郎に因んでいるのは良く判りますが、エリアなかいちの入口では足拭きマットにされていて「来客に足蹴にされる仕様」と川端たぬきさんが憤ってましたね……。ちなみにエリアなかいち、まだ行ったことありません。
広小路に入って1本目の交差点(木内前)を左折。今では目立たない小さな交差点ですけど、藩政期の広小路は実は秋田駅側からここまでで、この左折方向へと続くのが本来の目抜き通りだったのでした。ここは古川堀反町、旭川の旧河道である『古川』を転用した外堀に沿う町です。今も『穴門堀』として、写真右手に現存する、数少ない堀です。
という歴史ある通りなのに、私ここ通るの今回が初めてなんですよねえ。じっくり楽しみたいです。
相変わらず解説柱は読めませんが(^^;;; ここには道路通称としての『古川堀端通り』に旧町名が生きています。ちなみに、背後の巨大ビルは、秋田中央警察署の裏手です。
……東外堀にも『手形堀反町』という重臣屋敷町があったんですけど、そこは道路通称が付けられていないし、それどころか近年、道路も町形も壊されているんですよ。『秋田駅西北地区再開発事業』の名の下に。
とても病院には見えない建物ですねえ。
古川堀反町に来たのは、ここにも神社があると地図に載っていたからです。名称は判りませんでしたけど。が、実際に通ってみると、神社らしきものは見付けられませんでした。あれっと思いつつ、そのまま先へ進んだのですが……後日調べてみたところ、おなじみ二〇世紀ひみつ基地さんの記事が見付かりました。しかもついこの前の年末の記事! 穴門の堀に龍神を観た・広小路「蛇柳」跡ポケットパーク……雄柳大龍王尊神社というものがあったそうですが、2007年6月に八幡秋田神社(この後で行きます)へ合祀されたということです。
現存する堀が尽きるところで右折すると、今は埋め立てられた穴門橋跡を渡って、下中城町に入ります。ここで、寒いので……というより賽銭に使える小銭が足りなくなってきたので(^^;;; 自販機で崩しました。この自販機、缶のみならず500mlペットボトルすら全部100円という、HDSより椀飯振舞な自販機でした!
堀の内側には、秋田和洋女子高校があります。古川堀端通りと違ってこの道(佐竹小路)は何度も通ったことがあるんですけど、何故か和洋って存在を意識したことがないんですよ。初めてじっくり見ます……いや、女子高をじっくり見るっていうのは不審者っぽいですか?
和洋の直後に『穴門跡』があります。明治期に町として確定する前は、ここから先が下中城だったんでしょうね。下中城は、久保田城三ノ丸の一角です。
道自体も少し起伏があるんですが、奥の完全な高台に建っている建物は、秋田県民会館です。佐竹義宣公子飼いの家臣である渋江政光以下、渋江氏の邸宅があった場所です。下中城に屋敷を構えていたのは、現在の県民会館付近にあった渋江政光邸と、現在の国学館高校付近にあった梅津憲忠邸、2軒だけです。逆に言うと、その2軒がいかに巨大かというもので……。
県民会館の脇に、南堀という内堀の一部が少しだけ残ってます。と言っても、この雪では存在も判りにくいでしょうが……。
下中城町から二ノ丸へと続く坂道の途中に『松下門』の跡があります。現在は自動車でも通れるようにされており、千秋公園の正面入口となっていますが、藩政期には当然ながらもっと狭く、かつ屈曲した防御地形になっており、しかも搦手門(裏口)という扱いでした。では正面入口はどこかというと、東側で現在県道28号秋田岩見船岡線が通っている『大手門』が相当します。
坂を登りつめた二ノ丸入口に、案内地図があります。背後にちょっと見えているのは佐竹史料館……ここも一度ちゃんと見学したいところなんですが、なかなか行く機会がありません。次こそはっ。
入口だけあって色々な案内や解説があるんですが、ちょっとやり過ぎじゃないかって気も。まあ、どれも『工事中』の看板よりはマシですが(^^;;;
『長坂』を登って本丸へ向かいます。屈曲する坂道の途中に『長坂門』跡があり……その先で本来は右側へ向かうのですが、左へ誘導されていますね。表門からの落雪があった危険なので、まわり道を使うようにとのことです。
近寄らなければ前まで来たって良いでしょ、ということで、表門へ来てみました。これは復元建造物ですが、脇にある番兵くんの詰所『御物頭御番所』は、久保田城唯一の現存建築物です。この他の建物は、いずれも藩主退去後の解体や明治13年の大火による焼失で消滅しています。大火で焼け残ったものの1つが御物頭御番所という訳です。……裏門も焼け残ったのですが、寺町の鱗勝院の山門として移築されたため、城内に残っていないのです。
まわり道の先は、本丸の周囲を取り囲んでいた土塁の上を通る道でした。ここは多聞長屋があったところです。長屋は本丸の防御施設であると同時に、警備の武士が詰めたところでもあります。周囲全部が長屋ではなく、板塀で代用したところも多数あったんですけどね(前述の解説板にある絵図参照)。
土塁を乗り越えて本丸に入れば、そこには当然、表門がある訳です。勿論こっちからも出ることはできませんけどね。
それにしても、松下門を通った頃から、雪が段々強くなってきたんですが……。こちらの防寒策も十全にしてきていますから、特に問題がある訳ではないんですが、先が思いやられるなあ。もう神社巡りも半分以上消化していますけど、この先は距離が結構離れているので。
表門から本丸に入って正面に、八幡秋田神社があります。藩主佐竹氏の常陸時代からの氏神である正八幡宮・大八幡宮と、初代藩主である佐竹義宣以下、歴代藩主を奉る秋田神社が合祀されたもので、秋田の近代信仰の文字通り中心と言えるでしょう。社格という意味では寺内の古四王神社が最高位ですが。
……あ、ここ、8年前に放火に遭ってたんだ……。旧社殿は八幡山にあった大八幡宮のものということで、御物頭御番所とは異なる藩政期の建造物。勿体ないにも程があります。 → 八幡秋田神社焼失す - 二〇世紀ひみつ基地
続いて隣にある與次郎稲荷神社。通町の招福稲荷神社もそうですが、一般に稲荷神社と言うと穀物・農業の神、それから派生した産業の神であり、狐は神の使いとして奉られます。ですがここは珍しい例外で、狐が祭神そのものになっています。
佐竹義宣公が久保田城を築城する際、神明山に住んでいた狐が住処を失ったことで替地を求めたため、幾許かの土地を与えた引き換えに狐は公直属の飛脚として仕えるようになった、という伝説があり、その飛脚狐の名が與次郎です。與次郎は秋田江戸間を6日で往復したと言い、江戸の内情が短期間で筒抜けになることを恐れた幕府、仕事を奪われた別の飛脚、あるいは通過される宿場の者によって、六田宿(現在の山形県東根市)で與次郎は殺害され、以後久保田城三ノ丸八幡山(保戸野金砂町を経て明治25年に現在地へ移転)と六田の双方に與次郎を奉る神社が建立されています。離れた場所で同種の伝説が語られているというのではなく、一つの伝説として伝わっているのも珍しいところです。
そんな訳で、與次郎稲荷神社には一般的な稲荷信仰の他、交通安全やスポーツ、健脚の神としての信仰も寄せられており、自転車乗りとしてはむしろ氏神に等しい存在なのです。ここは賽銭も奮発して、八幡秋田神社の5倍でドン! 更に倍!(違)
改めて本丸の案内図。本丸内部には政務所と御殿(藩主居館)がありましたが、神社がある側が政務所だった……筈です。残りは概ね公園の広場ですね。
御殿跡地の中心にあるのが、佐竹義尭公像です。第12代にして最後の藩主であり、維新後は侯爵。久保田城跡が陸軍から払い下げになったのは没後なので、東京移住後に本丸の地を踏むことは無かったと思います。
現在の佐竹宗家、継嗣がなく断絶確定なんですよねえ……えっと、義栄侯の婿養子が孝氏だけど、離婚されたため百合子夫人が当主になってたんでしたっけ? で、百合子氏も昨年だか2年前だかに亡くなられた?
裏門跡を通って二ノ丸へ戻ります。先に書いた通り、裏門は明治13年の大火でも焼け残りましたが、移築されたため現存しません。でも二の丸広場との行き来は表門と同様に便利ですよ。
二ノ丸からは、厩門跡を通って三ノ丸山ノ手(手形上町)へ下ります。「押切に通じる道」と言うと、解る人には解るでしょう(普通解らないって!)。……彌高神社? 行かないって言ってるでしょ。
厩門の坂を下りてすぐのところにある千秋城下町交差点を渡ると、重臣屋敷町であった三ノ丸山ノ手こと手形上町です。昭和41年の住居表示実施以降は千秋城下町という町名になっているのですが……何で山の上まで『城下町』になっているんだか。北ノ丸や北ノ丸新町ではないところまで『千秋北の丸』にしたりしているし、秋田の住居表示に伴う町名整理は滅茶苦茶です。
で、更に(本当の意味での)城下へ下りていくのですが、その経路として、手形陸橋脇の階段を使おうと思っていました。……雪に踏み跡がほとんど無い(^^;;; そりゃ、歩行者の主要な交通路は陸橋左側で、こっちを通って行く人は少ないだろうけどさー。アパート側へ思いっきり寄ってから、横断するように歩く羽目になりました。
やっとのことで階段に辿り着くと、当然のようにここも踏み跡が弱々しいんですねー。少なくとも、階段であるようには見えません。手摺も無いから(右側の手摺はこの位置関係だと無意味)、おっかないったら。
ところで、上の写真でも判る通り、手形陸橋は拡幅される予定になっており、橋脚は既に4車線分になっています。が、桁の増設が行われる形跡はまったくありません。この状態で暫く塩漬けになってます。橋脚に銘板があったので見てみたところ、工事が行われてもう5年になるんですね。どうなることやら。
ちなみに、手形陸橋拡幅工事は過去に一度行われていまして、昭和63年頃に左側が拡幅されています。以前は車道2車線+金属フェンスで区切られただけの幅半間くらいの歩道という構造だったのですが、第1回拡幅によって時間帯別中央線変移の3車線+嵩上げされた幅1間半の歩道という現在の状態になりました。奥羽本線を跨ぐ中間部にある階段も、以前は単なる踊り場付き直線上だったのが、今のような螺旋階段になったんです。直線だった頃は、雪が降ると階段を尻で滑り下りたりして遊んだもんですよ(← 逆おいおい)。
陸橋を下りた直後は外堀の埋立地ですが、もう1本先まで行くと手形谷地町です。上丁・下丁に分かれており、陸橋と第二手形谷地町踏切の間くらいが境目だと思います(陸橋建築前の地図と現在の地図から推定)。
陸橋から秋田駅側へちょっと進むと、本当にすぐ先に、手形谷地町の解説柱があります。上丁・下丁合わせて1本なんですね。これは夏にも見たことがあるので、わざわざ雪を踏んだりしません :-)
解説柱があるのは、本日10番記念・秋田大神宮の前です。ここ、鳥居無いんですね。手前の松の枝が鳥居の役割を果たしていそうです。この大仰な社名は、皇大神宮の外郭団体である神宮奉斎会秋田支部が前身であることに由来します。
手形谷地町を秋田駅方向へ進むと、手形上町からの下り坂(渋坂)と合流するところで食い違い十字路になります。この先は手形堀反町。写真に見える高台は三ノ丸上中城で、崖下が外堀、外堀に沿う片側町が手形堀反町となります。手形谷地町が小禄の家臣の屋敷町だったのに対し、手形堀反町は家老級の重臣を何人も出した大身の屋敷町です。
……で、そんな歴史ある町は現在鋭意破壊中でして、手形谷地町も合わせて道路を直線化し、かつ駅東(手形字山崎)方面へ繋がる地下道を作ることになっています。昭和50年代の計画をなーんも変更せずにそのまま続行しているのです。ここに東西連絡道を作って、誰が使うのよ……中距離需要は手形陸橋で充分賄えているし、住宅地同士を繋いでも自動車交通的なメリットは無し、歩行者需要は駅東繁華街と駅前繁華街の両方を利用できるWeロードとぽぽろーどが主。となると、手形陸橋より南かつ紅華荘より北という極めて狭い範囲の人しか使う意味が無いってことになると思うんですが。それ、藩政期から残っている町形を破壊してまでやることですか?
手形陸橋開通前は、大回線が手形堀反町を通っていたと聞いていますが、今この道を拡幅してバス路線にしたとして、手形陸橋経由よりも優位性があるとしたら……手形谷地町や手形字山崎・手形字西谷地の南部から大学病院線のバス停アクセスが少し楽になる、くらいかなあ。費用対効果が低すぎます。
とにかく、ここ数年、建物が破壊され道路が拡幅されてめっきり『空っぽ』になったこの風景を見る度、水野は居たたまれない気持ちになるのです。
秋田駅前を通り過ぎ、手形陸橋から駅を挟んで反対側にある東西連絡路・明田地下道へやってきました。あ、秋田中央道路もあるか。地上からじゃ見えないけど。ここ、あけぼのの秋田到着直前に写真撮ってます。今日は逆に撮影(^^) しっかし、雪がますます酷くなってるなー。レンズが濡れそう。
ここで羽越本線・奥羽本線を潜って東通へ出れば、この先の道が拡幅済みで通り易いのは判っています(註: 拡幅しただけで旧来の線形を変えていないので、水野の逆鱗に触れない道)。でもそれだと面白くない。古い町が残っている、西側の道を歩き続けます。明田地下道西交差点から先、200mくらいは凄く狭いんですけどね(東京の方に判り易いように言うと「井ノ頭通の世田谷区区間」みたいな感じ)。
狭隘区間を過ぎてすぐのところに、築地北丁バス停があります。広小路と比べてここ通るバスは少ないですが、それでも原の町よりは遥かに多いですね(悲)。桜ガ丘線、な大学線、雄和線と比べても、楢山大回線の貧弱さが泣けて来る……
更に進むと、秋田市立秋田南中学校の前を通ります。私の父は楢山の人間なので、ここが出身校です。私は前を通ったことしかないけど。
細い道を抜けた付近からこっち、通ってる道は、通称を『大堰端』と言います。秋田駅付近にあった『長沼』から引いていた用水路に沿う道なのです。農地はもうありませんが、用水路は暗渠として残っていますし(反対側と比べて妙に幅の広い歩道。更に歩道の外にも空間がある)、今も送電線の系統名などに名前が残っています。
南中の向かいに、重厚な蔵がありました。表が駐車場になっており、その名も「大蔵駐車場」、だったかな。この付近は築地下東町、築地四辻町の辻の南東にあたる区画です。やはり小禄の町ですが、中通と違って官庁街化しなかったので、武家屋敷由来の古い建物が比較的残っていたところです。
過去形で書いた通り、自治体からの補助も無く所有者による維持も難しく、次々に破壊されているんですよねえ。この蔵も見るからにボロボロなので、次来る頃まで残ってるか判らない、と思って、撮影しておきました。
築地の南は楢山の武家屋敷ですが、東側は農村の楢山で、そっちへ向かいます。なお、秋田駅付近も農村の楢山の一部です。あそこは久保田城下町じゃないですよ。
羽越楢山踏切で羽越本線を跨ぎます。築地付近からもう羽越本線と奥羽本線は分岐しているため、この付近では既に200mほど離れています。住宅案内図に『バス路線』と書かれている道を通るんですけど、大型バス通るのにかなり狭いですよここ。この付近が楢山字楢山で、楢山村の本村があったところです。住居表示後『楢山大元町』と命名されたのも、本村であったことに由来します(範囲がちょっとおかしいけど)。
奥羽本線との交差は踏切ではなく地下道になっており、楢山大元町地下道と言います(出典: 秋田市 - 道路維持課 - 緊急時通報板)。左の踏み跡無いところが歩道のように見えますが、実際にはこれは側道(それも恐らくは私有地)であって、線路を横断できません。歩道無し・狭隘・ブラインドカーブな道を歩くしか無いのです。きっけーん。
にも関わらず、丁度真上をE3系が通過したため、立ち止まって撮影しまくり。この道路の交通量は、大堰端ほどではありませんが決して少なくないので、結構迷惑だったかも……。このE3系は、秋田駅到着後に秋田車両センターへ入庫する、こまち23号かな? 秋田着から5分しか経っていないので早すぎるかなあ……だとしたらこまち86号(14:28発)が30分遅延して発車したとか?
さて、地下道を潜ってすぐのところで、太平川の岸に出ます。そこから見える小さな山……その名を「富士山」(ふじやま)と言います。山を含む土地の名が楢山字明田(現・東通明田)なので、通称「明田富士」(みょうでんふじ)とも呼ばれます。標高は35m!
この写真、Wikipediaに載せた写真と同じアングルなんですが、Wikipediaのは手前に橋(才八橋)が挟まってしまって見栄えが悪いので、撮り直したかったんです。冬の写真はどうかという気もするけど、差し替え差し替え。
ちゃんと『登山口』があるんです。後程行きますが、今は西側山麓を北へ向かいます。
隘路かつ屈曲どころか屈折があるのに、抜け道であるため交通路が多い道を必死に進みますが、すぐに磯前神社(いそざきじんじゃ)の参道が道路と並行するので、勿論そっちを通ります。実際、周辺住民の方は歩く時は参道を通っているんじゃないかな。交通安全の神と考えてみましょう(^^;;; ← 違います。
真新しい由緒記があり、とても読み易かったです。秋田県神社庁の資料によると、少なくとも寛永期には既に鎮座していたことが確認できます。それ以降の改築の話が無いってことは、今の社がそのまま寛永期の建築?
もう1つの古い由緒記は文字が掠れていてまるで読めませんが、微かに読み取れる部分から考えるに、同じ内容のようです。
秋田大神宮以来、久々の参拝となります。歴史ある本殿に……おおっ!? 昭和3年奉納という扁額に『廣山田村第四部 楢山消防組』の文字が! 初めて見たよ、資料の上でなく現存する広山田村の文字! でもその脇に住居表示板が貼られているのは興醒めだよ!
磯前神社の境内社ですが、明田神社というところがあります。由緒記によると、馬頭観音堂を売却移築した後に祟りがあったため、現在地へ改めて祭ったということ。馬頭観音堂跡も後で行きますが、売却されたのが大正8年頃ということは……稲八金天神社みたいな流れで無格社の権威が失墜した挙げ句の暴挙だったんでしょうか? ちょっと時代が進み過ぎていますが。
磯前神社参道と車道を挟み、明田神社の向かい合わせにあるのが、地主稲荷神社です。元は磯前神社に合祀された白山神社ということで、保存樹『千歳の松』(保存樹としての登録は『白山の松』)の由緒を鑑みれば、白山神社として鎮座していた方が適当なんじゃないかなあ。しかし見栄えも物語も綺麗なとこだこと。
では、冬の富士山登山(ふじやまとざん)と洒落込みましょうか! まずは太平川岸まで戻って、川沿いの細道を進みます。
100mで登山口に到着(^^;;; 雪が弱まって条件が良いので、さくっと行きましょう。
登山道の中腹(そう、すぐに中腹)に、明田稲荷大明神があります。本殿より鳥居の方が立派なんじゃ?(^^;;; 鳥居越しに見える常夜燈には、天保4年と刻まれています。神社の設置もそうだとは限りませんが(使い回しの可能性が……)。
大明神よりもう少し上の平地に、日本山岳会秋田市部創立四十周年記念の標柱がありました。何でこの山に日本山岳会が、というのは、実は伏線になっているのですね。
登山口から僅かに3分(撮影時間を除けば2分)で登頂(^^;;; 相変わらずのお手軽登山でした。そしてここには、日本山岳会による「日本一低い富士山」である旨の標柱が設置されています。全国322ヶ所の「富士」と名の付く山の中で最も低かった、ということのようです。現在では大潟富士(標高0m、比高3.776m)なんてのもありますが。
富士山山頂の奥に富士大権現が祭られています。本日最後の神社……と言って良いのでしょうか? 本来はずばり「富士山神社」があったみたいですけど、磯前神社に合祀されています。
冬で植物の勢いが弱いこともあり、市街地が広く見渡せました。これ、左は豊岩・下浜の山から、右は手形山を越えて柳田・太平付近の太平山の眷族まで見えていますね。雲が無ければ男鹿方面も見渡せたでしょう。
遠くばかりではなく近くも見ると……奥羽本線の太平川橋梁があります。鉄橋とPC橋の2本に見えますが、実際には鉄橋が2本で計3本です。羽越本線も見えるので、都合秋田駅から南側を通る列車はここから全部見えることになります。秋田車両センターへの出入庫もありますから、秋田県内では最も多くの列車を眺められるところと言えるでしょう(秋田駅そのものは別)。
10分ほど待ち構えて、色々写してみました。この他、羽越本線の701系や貨物列車も見ています。
まるで盆栽のような松が。
下山して、磯前神社とは反対の東側山麓を通り、合わせて富士山を3/4周ほどしました。そのほぼ最後、東通の幹線路(市道明田手形線)に出る直前に、明田神社で書かれていた馬頭観音堂跡があります。前にも来たことがあります。妙田村(楢山村枝郷)の農地は東側にあったと推測されるので、農作業を見守る氏神という側面もあったのではないかって気がします。
で、昭和16年まで楢山小学校が建てられていた地でもあると……あれ? 楢山小学校って、明治初期段階で築地小学校と合併して、築山小学校になった筈……あ、そうか! 侍町の楢山(当初から秋田市)ではなく、農村の楢山村(明治22年から広山田村、昭和16年に秋田市編入)の学校ってことか!
さて、神社巡りを終えたので、帰宅の途に着きます。更にアトリオンへ寄って献血していこうなどと目論んでもいましたが、流石に時間が無いので控えておきます。
さて、市道明田手形線、通称「東大通り」の拡幅区間に出てすぐの、広面字野添地内(意外に思われるかもしれませんが、現行の字名でもこの付近は広面なのです)に除雪車が来てました。大通りですから優先的に行われますねえ。住宅地内を放置しておいて良いってこともないんですが……
駅前の本店は閉店してしまった、加賀谷書店の東通店。ここ、ブックスベルや宝島の頃は散々通ってました(← あんた何歳だよ)。入口に置かれていたアーケードゲームの筐体、1プレイ10円でしたのでもうね……ワンダーボーイとか奇々怪界とかはこの店と結び付いた思い出なのです。
秋田駅で販売されている駅弁で知られる、関根屋。もとは食堂も経営していましたが、今は仕出し専業です。食堂はうちの家族には評判悪かったな……。でも、今の秋田県道62号秋田北野田線は、今も『関根屋通り』と言った方が判り易いです。
そんなこんなで5時間に及ぶ神社巡りは終了。結局、十六社巡りでした。石動神社(広面字谷内佐渡)や川尻総社神社(川尻総社町、旧川尻町字総社前)も行ってみたかったけど、流石に徒歩移動には遠いのでパス。いずれは行きたいなあ。
はい、帰省最終日もしっかり十二女^H^H^H吹雪ですね! お外真っ白ですね! 献血とか御土産調達とかそもそも再上京とかあるのに、どーすんのこれ。
まあ予報では、昼前には緩むことになっているんだけど……しかし1日でまた雪に埋もれたよ。玄関先に道が無いですよ。また雪掻きせねば。
家族総出で30分以上雪掻きして、どうにか道を作りました。積み上げた雪が母の身長を超えています(← 人を写したくないと言ったのに、勝手に比較対象になりに行った)。うち、道路に対して南側に家があるから、道路側の雪は溶けにくいんですよねえ……区画整理で東側が道路になったから、昔よりはマシなんですけど(昔は周辺より1ヶ月近く雪解けが遅かった)。
さ、外さ出ささるようになったところで、お務めを果たしに行くすべ。それにしても今年は雪多いなあ。2車線幅の道路がすれ違い困難になってるよ。
こうして見ると、まだ家は雪に埋もれるほどではない、って思えるけど……手前のRC塀をどかしたら一気に印象変わるよこれは。
交通にとって一番危険なのが、こういう『オレンジ色の雪』。これ、表面のオレンジ色部分は単にざくざくした砂のような雪なんですが、この下は100%の確率で『氷』が一面を覆っています。滅茶苦茶滑るんです。歩いていても簡単に転ばさるので、受験生の大敵。それにこの直後、西武の前でタクシーが脱出できなくなっていました。
広小路を大町方向へ向かいます。数歩歩いて気が付いた……歩道に積み上げられている雪、車道の雪が全部寄せられたんでしょうが、凄い高さになってます。大型バスが通ってもほとんど見えないよ!? これ、しゃがんだりせず普通に『見上げて』撮ったんですよ!?
昨年までは帰省の度に寄って買物していた、加賀谷書店本店。閉店してしまいました……。跡に入るのは、よりによって和民なんですが、既に扉が居酒屋仕様に取り換えられていますね……。
アトリオンで献血……秋田の看護士さん、毎度毎度、カフを強く巻き過ぎる気がします。今回はキツいって感じるだけでしたけど(それにしてもかなりのものだったけど)、数年前は腕が紫色になったことありましたからねマジで。
それから県産品プラザで、いつものようにおかいモノ。職場の人への御土産品と、自分用に……角館樺細工のポケットティッシュ箱(古代調)。いや、ポケットティッシュ使わないものだから溢れんばかりに余ってまして。こういうのがあれば、積極的に使うようになるかな、と。
加賀谷書店は閉店してしまったので、郷土資料を蒐集するには、閉店の遠因であるジュンク堂書店へ行くしかありません。いや、他にも本屋はありますけど、規模から考えるとね……。
そんなこんなで以下7冊を購入。読むのは勿論これからですが、買おうと思った経緯をちょろちょろ書いて行きましょう(twitterから転載)。
以上。読み切るまでにどんたげかかっかなー。
外に出たら、また吹雪いてる!? こんな状態でなお自転車で走ろうとする人、ご苦労さまというか、危険だからやめてくれというか。
駅もすっかり雪に覆われています。年末には一時、除雪が追いつかずまるごと埋まったこともあったようですが、取り敢えず今は……列車が通る部分は何とか……。でも列車の前面とか見ていると、やっぱり大変そうな気がします。
線路が埋もれているなら道路も埋もれているということで、駅東口の駐車場は勿論大規模な雪捨て場です。昔なら子供達が遊んでいそうな場所なんですけどね(というか私が遊びに来る)、今は誰も寄りつきません。ちなみにこの2枚目の写真、リサイズ以外弄ってないですよ?
車道が埋まっているなら歩道はもっと埋まっていて、ほら手形東通線の歩道なんて獣道状態。これでも『獣道』ができているだけまだマシだというのは、昨日あちこち歩いて見た通りです。細いのと凹凸があるのとまっすぐ進めないってだけだから。
さて、1週間に及んだ帰省生活も今日でおしまい。再上京の時が迫って参りました。家族総出で(車出せる上京ではないので徒歩で)トピコへ行き、夕食に比内地鶏。それから……何故か全員解散して、御土産物を追加探索する私、本屋へ行こうとする父、喫茶店へ行こうとする母、と自由行動。うちの家族は仲悪いですねー。ここに兄が居たらもっと大変。
私はと言うと、何故か再度アトリオンへ突撃していたりしました。いやさー、羽後町古民家ポスターがまだ揃ってないことを思い出した(確認した)ので、この機会に買わないのはおかしいだろってことになりましてね。で、買ったのか以下の品。
……全部重複orz てぃんくる氏のなんか、これで5枚目ですよ。欠けているのはNo.1「鈴木家住宅(外部) 江草天仁」とNo.13「阿部憲典邸 芹沢リズ」の2つだけなんですけど……なかなか思うようにはいきませんなー。
秋田駅へ戻って、トピコでもおかいモノ。会社の人への御土産は既に確保してありますので、コンビニも含めて数軒巡り、ネタ品を集めてみました。
いや最後のは静岡県の品なのですが(^^;;; コンビニとは言え、何で秋田駅で売ってるんだ。つまり全国区の品として出回っているんでしょうが……アニメ絵商品を売る素地があると狙って秋田駅に出荷したんだとしたら、その考え方に拍手しましょう。納得はし難いですが(^^;;;
改めて秋田駅中央改札口で一家集合。秋田駅へ入線するこまち42号を撮影しようと窓際へ寄ったら、既に入線している最中だったので断念しました。さ、休暇はおしまい、現実へ戻りますよー。
ホームに着いて、まずは写真撮影がお約束ですわー。第3・4ホーム間の中線にキハ100が居ました。花輪線直通用?
乗るのはこれ、E3系0番台R5編成こまち42号。帰りも寝台列車とかにしてしまうと、明日の朝が蝉っぽいことになってしまいますからね。いや、新幹線であってもこの時間の便だというのは大概ですが……。
何しろ大宮着が22:42ですからねえ、前線基地到着は夜半になりますよ。
秋田発は19:10の予定だったのですが、下りのこまちが遅延しているということで、11分ほど出発が見送られました。到着がますます遅くなります。
羽後境(信号停車)、大曲、角館、刺巻(列車交換停車)、田沢湖と停車して行きます。盛岡到着時点で、遅延は……約10分のまま、まったく回復していませんでした。
車内から駅名標を撮ろうとする場合、自分の座席の近くに駅名標があるとは限らないから、とても難しいですね(諦)。さて、東北新幹線に入ると、大宮までの途中停車駅は仙台だけです。なので勿論、カッ飛ばします……けど、遅延は最後まで回復しなかったのでした。
大宮からは埼京線(205系)で池袋、山手線内回り(E231系600番台)で高田馬場、西武新宿線準急(20000系)で田無。埼京線も新宿線も、終電一歩手前でした。あっぶなー。徒歩で前線基地に辿り着いた時は、夜半を過ぎて24:25でした。
年末に追加注文していたLuminousパーツが届きましたー。
以上。ハーフ棚という珍しいものを買いました。4点ではなく2点で支持する、つまり重いものを載せられない棚です。現在構築中のPC棚、縦置きになるのはPC-8801MCだけなのですが、そうすると下に横置き機や外付けFDDなどを置いたとしても空中が空いてしまうんです。考えた結果、ハーフ棚を使ってキーボードを置けば良いのではないかと思ったものですから。