阿部@佐倉です。

In article <20050531202537cal@nn.iij4u.or.jp>,
 cal@nn.iij4u.or.jp (SASAKI Masato) wrote:

> だいたいが私の質問は
> 
> >そこで第1の質問の前提質問を提示します。
> >
> >「表現の自由」というのは
> >あらゆる局面で唯一共通の定義付けがなされている語なのですか?
> >(ただその唯一共通の定義について争いがあるというだけなのか。)
> >分野によって(たとえば法学以外の学問分野で)
> >異なる定義付けがなされていてそれは並立可能な語なのですか?
> >
> >まずこの点について御自身の立場を明示してください。
> >(明示できなきゃ議論は不可能です。そもそも。)
> 
> まずこの点について……って書いているのに
> この点について書くことをしないのですから……。

あの〜、
| 私は表現の自由ってさまざまな問題を
| 持っていて、たった一つの定義で語れるものではないよと
| 主張している訳ですから。
と述べ、「日本国憲法における表現の自由の意味」「マス
メディアの発達と社会的責任論」「表現の自由論の進展と
日本国憲法における『表現の自由』への影響〜ミルトンから
アクセス権まで〜」と3例も示しているのですが、不十分
ですか?

その上で私は、表現の自由というのは、「自由に情報を受け、
求め、伝えること」(以前山田さんの著書から引用した
とおり)程度の広い定義の中で、必要に応じて意味が限定
されてくる、ように捉えています。だから佐々木さんの
「表現の自由は誰にとっても自明なのでしょうか?」
という問いは、「どのような局面で」が示されなければ、
回答できないとしているのですが……。

> もし後者「分野によって異なる定義付けがなされていてそれは並立可能な語」
> なのであれば、
> そもそも「【憲法における】言論の自由」とか
> 「【マスコミにおける】言論の自由」とか
> 違う語であることをきちんと明示しなければいけません。
> 「いや、何もつけなければ一般的な用法なんだ」
> と反論するかもしれませんが
> その一般的な用法が本当にあるのかどうか実は怪しいのです。
> あまり考えずにあいまいに使用しているだけでしょう。

であるならば、佐々木さんは自分が使っている「表現の自由」も
【】付きで語られることを自覚すべきでしょう。

> 御自身の投稿した文章に対し
> 【】をきちんと付すことができなければ
> (それは他者の引用をする時にも同様です。
>  筆者注として付すべきです。)
> それ自体「あいまいなままで議論をしようとしている」訳で
> 批判されても仕方のない話です。

この批判については、私はその通りだと同意して
いるつもりです。

> 「法学以外に一般的な用法としての言論の自由があるんだ」
> なんてことが平然として語られてしまう。
> 「生物学以外に一般的な用法としての鳥があるんだ」
> なんて主張は変だから、たいてい誰もしないのに……。

たまたま一般的な用法と争う余地が少ないからでしょ?
道路の例を挙げておきながら、こんなことを言うなんて、
なんか変な感じがします。

私の理解ではいわゆる国語辞典的な、誰もが思い浮かべる
道路というのがあって、その中に(ひょっとするとそこから
はみでるものもあるのかもしれませんが)「道路法の道路」
とか「道路交通法の道路」とかが含まれるのでは?

私には、佐々木さんが国語辞典的な定義の道路や、
「文化史的な『道路』」や「工学的な『道路』」を
無視して「道路法の道路」とか「道路交通法の道路」
とかが唯一の道路に値する道路だと主張しているように
見えているのです。

私は、国語辞典的な道路や、文化史的な道路、工学的な
道路を無視して議論をしているのではないかという
いうところに疑問を抱いています。

だからこそ、我々はこれから一体何を議論するのかという
ところを気にしています。

それと、佐々木さんがルールの議論においても「表現の
自由」を(日本国憲法における)表現の自由に限定しようと
していることへの疑問は、参院憲法調査会での浜田純一先生の
参考人質疑での発言なども参照した上で、やはり佐々木さんが
あまりにも狭めすぎているのではないかと思っています。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/keika_g/155_04g.htm

2002年11月27日の議事録によると、
「ここでは表現の自由を擁護する運動の側と理論の側の
一種の共闘状態が生まれたと言ってよいかと思います。
ただ、両者は完全に重なり合ったわけではなくて、憲法
訴訟論を離れて、体制批判の有力な後ろ盾として表現の
自由という言葉が法律論の形を取りながら運動論的にも
用いられると、こういう状況もございました」
「こうした形で運動論が法律論と絡み合うことには
プラスとマイナスがございます。表現の自由が政治的な
性格を持つ以上、理論が運動と絡むのは全く自然のこと
であります。また、運動論的な言葉の用い方を通じて、
結果として表現の自由の理解あるいは価値に対する社会の
認識が進む場合もございます。他方、運動の目的のために
表現の自由というものが言わば安売りされて、憲法学上の
厳密な概念ないし理論としての性格をあいまいにする危険
もあります」
と、「安売り」懸念を示しつつも、表現の自由論が必ずしも
法律論としてだけ展開されていることを述べています。
もちろんその後「仮に憲法学という学問の立場で正確な
議論をしていく場合には、運動論上の表現の自由の概念と
法律論上の表現の自由の概念というのは、これは慎重に
区別していかなければいけないところであります」と
しています。

これに対して佐々木さんは、法律論でないものを完全否定
しているのではないのかというのが私の疑問です。

また、浜田先生は「法律論上の概念云々は別にしまして、
表現の自由に対する危険をできるだけ手前で食い止め
ようとする運動論は、表現の自由が民主主義社会の
根幹を成すものであるということを考えれば、それ
として理解できるところもございます」とも述べています。

さらに「この表現の自由ということについては、特に
情報化社会の進展の中で新しい局面が生まれている
ように思います。インターネットの発展、そしてそれに
よる国民一人一人の表現の機会や多様な情報入手の
機会の拡大というものは、表現の自由を具体的に実現
するために革命的といってよいほどの変化をもたら
したと思います」(中略)「技術の発展というものが
憲法の理論よりも自由を拡張するのに貢献したという
印象を持つことさえございます」としており、「こう
した情報技術の発展も踏まえた大きな文脈の中で表現の
自由というものをどのように社会的に実現していくのか、
そういう視点を持つことが重要であるというふうに
思っております」と、(広い意味での)表現の自由論の
現代的な視点を示しています。

ここで、浜田先生のいう「表現の自由を具体的に実現
する」は、「権力による表現規制の禁止」のように、
解せるのですか?

そして、佐々木さんのいう「表現の自由」は、こう
した視点を持ち得るのですか? それともこうした
視点を示した浜田先生が間違っているのですか?

また、浜田先生はこの陳述の中で「情報に対する権利」
という用語を使うのですが、その後の質疑で「何か
憲法上の具体的な請求権を発生させるようなもの、
そういうものとしては私は考えておりません」
「具体的に憲法上の規定として明文化する必要はない」と
佐々木さんが否定しているような「権利」の使い方を
しているように私は受け止めました。こうしたことは
許されないのでしょうか?

これとは別にたまたま見つけたのですが、
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/a77e2c965e54c15d20532b750bdcdf7d
でも、「従来、表現行為は、個人が単独でなすもので
あった。しかし、現代社会においては表現行為は集団で
なすものとなっている。その表現行為に至るプロセスを
いかに保障するかが、現代的課題であり、外部からの
干渉は、あってはならない…」ということが述べられている
のですが、佐々木さんの表現の自由の枠組みで、こうした
問題意識は生まれるのかということも疑問です。

失礼だと思い、これまで何度も聞こうと思っては飲み込んだ
のですが、佐々木さんは本当に、(広い意味での)表現の
自由論の展開を、それこそミルトンとかの思想から、
社会的責任論、知る権利、アクセス権をはじめとする現代的
展開まで、法学という分野にとらわれず、簡単にでもトレース
しましたか? 残念ながらこれまでのかたくなな態度からは
そうしたことがうかがえなかったです。

-- 
阿部圭介(ABE Keisuke)
koabe@mars.sakura.ne.jp
関心 ・専門分野 :
 新聞学(ジャーナリズム、メディア、コミュニケーション)