fj.***での投稿は「議論」が前提とされている、とは以前ど
なたかが指摘されていたことであります。

「議論」ということであれば、

     ・ある事実を指摘し、
     ・或る価値観から評価し、
     ・結論を言う

この場合、自己の見解の結論に説得力を持たせるため
に、
     ・大前提
     ・小前提

を踏まえ、理論的な説明を心がけ、結論を導きだす。

私は、投稿が信頼されるかどうかなどは以上を踏まえた
<考え方>が信頼されるべきものか否かが全てだと思う。
もちろん表現は簡略化され省略される場合が多々あるで
あろう。

例えば、公的機関の意見だから信頼されるものとは限ら
ない。その公的機関の行動自体が疑義を孕んでいるとの
問題に対しては「公的機関」を理由に説得性を付与するこ
とはできないのであります。そこから公的機関自体が疑
義を孕んでいるとの問題でない場合においても、直ちには
信頼の理由にはならないということになる。

また例えば、大学で言えば東京大学が皆さんからは最も
信頼されると考えておられるのかな?しかし、そこにおけ
る先生方にせよ程度はさまざまであって、一般の感覚で
の「東京大学」レベルには到底達しないような見解しか持
ち合わせていないような者も多い。

ましてや、所属を言ってもらってもそれが所属を知らない場
合と比べ、見解内容に嵯が出て、且つ内容的に優れてい
るあるいは優れていないに直結する形で影響するとは到
底考えられない。

また例えば、「調べろ」とか、どっかのの第三者の意見を参
考にせよとか、「リンク」を紹介するとその記事は信憑性が
増すとも思えない。それ等、一般的にいわれていることに対
する疑念が主眼であるような場合は、そんな物を引っ張り
出されても意味はない。

結局信頼さるべきは、投稿に於ける議論内容にかかってい
ることになる。ところが、その議論たるや、それぞれの価値
観が反映されさまざまであってよい。ここでも結局は何も
「信頼」に値するものとはなり得ないような感を呈する。だか
らこそ、その外形=<考え方>、呈示された考え方自体の
正当性に信頼のありやなしやを置くのがもっともベターなや
り方ではないのか、こう考えるわけでございます。

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Golden Cross