Great Sugawara <sugawara81@greatest.com> writes:

> > ア・プリオリに存在するなら、あるとかないとかいった議論は起きないので
> >はないですか? 
> なぜですか?

 以下の公理からの演繹によって。

(公理)
ア・プリオリに存在すると言うことは、経験なくしても議論の余地なく存在す
るということである。

> それで、なぜ議論があってはならないんですか?

 いいえ、議論があるのはよいことです。なんらかの成果に結びつけば、もっ
とよいです。そもそも、私は議論があってはならないとは申し上げていないは
ずです。単に議論が起きていることを指摘しているだけなのですが。

> >すると議論が
> >起きているという事を持ってして、ア・プリオリには存在し得ない、となりま
> >すけど。
> なぜですか?
> 何を、どういう視点で見たら、そうなりますか?

「人権がア・プリオリに存在するならば、人権の存在に関して議論は起きない」
という命題1(公理からの演繹です)を背理法の視点から見ると。

        命題1が真であるとする。しかし人権の存在に関する議論が起きてい
        る。これは命題1と矛盾する。したがって命題1の前提である人権がア・
        プリオリに存在するという命題が偽である。

でいいのかな。

 議論は大いに結構ですが、論理がおかしいのではないですか? という指摘
です。

 公理に納得できないとか、公理からの演繹が納得できないとか、命題1は真
じゃないだろうとか言われるのでしたら、これはもう私にはうまく説明できま
せん。

 背理法の使い方がおかしい、ということであれば間違っている部分を教えて
いただければ幸いです。

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                                Tomoaki Akiyama 秋山 智朗
                                mailto:tomoaki-netnews@akiyama.nu
                                http://tomoaki.akiyama.nu/