tomoaki endoさんの<20030914104424.26d84238.noa@zd.wakwak.com>から
>遠藤(noa)です。
>On Sun, 07 Sep 2003 12:35:22 +0900
>wacky <wacky@all.at> wrote:
>> >>> で、wacky氏は、「自分で放火して自分で消火する」という例での「消火する」
>> >>> という行為に対して、褒められてしかるべきだと思いますか? 貶されてしかる
>> >>> べきだと思いますか? それとも何か他の主張を持ってますか?
>
>> >> だから、それだけの状況描写がされているのに「消火」だけを無理矢理切り出
>> >> して一般化(した評価を)しようとすることが誤謬の始まりでしょ。
>
>> >全然。
>> >「自分で放火した」という状況を考慮しつつ、「消火」の評価をすればいいん
>> >でしょ?
>> >その状況下で「消火」するのは間違いなんですか?
>
>> 間違いでしょ。というか、*繰り返します*が「消火」だけを無理矢理切り出す
>> ことが誤謬の始まりですってば。
>
>では、
>「A地点で放火をした人間が、消火活動を通じて注目を集める為に、
>  たまたま出食わしたB地点の火事の消火活動をした」の「消火」は
>  どうでしょう?(間違いですか?)

私は間違い→褒められてしかるべきではないと思いますが、関係性の薄い方向
へ持っていけばいくほど意見が分かれるであろう事は事実であり、仕方ないこ
とであると思いますよ。

私は動機といったものを重んじる質ですので、根本的に「放火→つまり他者
の生命財産を危機に晒すことより賞賛→つまり個人的欲求を優先させて憚ら
ない」時点でもう「タマタマ自分が放火した家屋ではなかった」とか「タマ
タマ消火しなかった」とかは些事に過ぎないです。
「心を入れ替えた」といったターニングポイントがない限りはね…。

ま、私の個人的見解はともかく、
「純粋に善意から消火活動をした人」との間に評価の差が生じたとしても特段
驚くにはあたらないことであると思います。
#というか、「同じ消火なんだから同じ評価をしろ」って方が無茶な話。

-- 
wacky