KGK == Keiji KOSAKAさんの<bjv21m$6ai$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> では、KGK氏は「(彼が放火魔であろうと)そのような行為に対する評価を表明
>> する状況にあれば褒める」んですね?
>
>はい。
>
>> #なら、最初からそう言えば良いのに。
>
>素直に読めば、それ以外の意味に取れないでしょ?
>何で他の可能性を考えるんだか。

はあ?
素直に読めば「貶さない」が「褒める」になるんですか?


>>> 「自分で放火した」という状況を考慮しつつ、「消火」の評価をすればいいん
>>> でしょ?
>>> その状況下で「消火」するのは間違いなんですか?
>
>> 間違いでしょ。というか、*繰り返します*が「消火」だけを無理矢理切り出す
>> ことが誤謬の始まりですってば。
>
>何故、誤謬なんですか?
>
>> この場合の「消火」は、その行為によって完結する「一連の行為によって形成
>> される一つの行為」の一部に過ぎません。ここで評価されるべきは「自分で放
>> 火して自分で消火した」という全体であると言えるわけです。
>
>行為の一部を評価することは間違いですか?
>何故?

たとえば「正当防衛を殺人と評価することは間違いではない」という視点であ
れば間違いではないでしょう。が、現在までの議論が「正当防衛を正しく正当
防衛と捉える」というスタンスにあることは明らかだと思います。
#だから、そのような「行為の一部を評価すること」は間違いでしょう。

>> だから、この立場から見れば「自分で放火して自分で消火した」への評価は
>> 「消火(活動を通じて注目を集める)する為に放火した」という時系列を逆転し
>> た表現への評価と何ら変わらないわけだが、KGK氏の論法からすると「それは
>> 放火に対する評価だ」ということになってしまうでしょう。同じ事を表現を変
>> えて言っただけなのにね。
>
>ここは大間違いです。
>まず、同じ一連の行動であっても、どこに注目して評価するかによって評価が
>変わるのはあたりまえ。

だからそれは「部分にこだわって全体を無視しているから」ですね。

>>>> 正当防衛が一般的な殺人と区別されることを考えれば「行為の行われた状況」
>>>> が「目的の正当性」に関係すること、従って判断材料として考慮すべきである
>>>> ことに議論の余地は無いでしょう。
>>> 
>>> それは、「行為の行われた状況」が何でも「目的の正当性」に関係することを
>>> 示していません。
>>> 「行為の行われた状況」が「目的の正当性」に関係すること場合があるってだ
>>> けの話。
>
>> 充分です。
>> その一例だけでも*考慮する必要がある*ことの立派な証拠でしょう。
>
>「考慮」はね。

でも、「消火」の場合は「放火」を考慮して無いでしょ。

>> この時点で、「「消火」という行為のみを切り出して評価せよ」という主張は
>> 否定されているわけです。
>
>いいえ。考慮した結果、どのように関係があって、それがどの程度なのかを判
>断するんです。
>で、どのように関係があって、それはどの程度影響するんです?

行為の目的や行為の行われた状況に関係があることは既に認められた筈では?
そして、不正な目的で為された行為を不正とみなすのは普通の話でしょう。

逆に、「考慮した」と言うのであれば、如何なる考慮のもとに関係無いと判断
されたのか、そこの所を述べるべきでしょう。


>>> だから、「自分でポイ捨てをしてる」という状況が「目的の正当性」に関係す
>>> るというのなら、「目的の正当性」にどのようにかかわって、どの程度不当な
>>> ものになるかを示してください。
>
>> 自らの欲せざる所を…(略)
>
>言葉を濁さずには答えられないんですか?

#分かり切った事を何度も述べるのが気恥ずかしいんですわ。^^;

>> #「何で人を殺しちゃ駄目なんだよ?」って尋ねられてるような気が…。^_^;
>
>という言い方をするってことは、論理的な根拠があって言ってるんじゃないっ
>てことかな?

他の記事でも述べましたが「自分がされて嫌なことは他人にしない」ってのは
既にして道徳的根拠の問題でしょ。「他人に迷惑を掛けてはいけない」と同様
の話ですね。

-- 
wacky