KGK == Keiji KOSAKAさんの<e4mtp5$r34$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>>>> : ちなみに、法解釈ってのは、
>>>>> : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E9%87%88
>>>>> : に書いてあるようなことみたいですね。
>>> 
>>>> 因みに、上記Webページで言及している「「靴はきちんとそろえて置くこと」
>>>> という張り紙」の例題は「「廊下を走るな」という張り紙」と変わらない問題
>>>> を示しており、なおかつ、それは*文理解釈ではなく論理解釈に分類されてい
>>>> る*わけです。

>「「靴はきちんとそろえて置くこと」という張り紙」に普通の意味で「靴」と
>言われる場合を適用すると、文理解釈で充分なわけです。
>それは自明だから書いてないだけの話。

その「普通の意味での「靴」」とは?
そこに長靴は含まれますか?含まれませんか?
#普通の意味の四角に長方形は含まれますか?

>つまり、同じ条文でも、場合によって、
>・靴なら文理解釈
>・サンダルなら類推解釈
>・長靴なら類推解釈か勿論解釈
>と使い分けてるわけ。

どうやら、KGK流の【普通】では「長靴は靴じゃない」ようですが、日本語で
言う所の『靴』の意味から言えば、その主張は誤りである可能性が高いでしょ
う。結局の所、「長靴は靴に含まれる」も「長靴は靴に含まれない」もどちら
も論理解釈でしかないわけです。
つまり、KGK氏が【文理解釈】と主張しているモノは、実際には「長靴は靴に
含まれない」という論理解釈を【普通そうだから文理解釈だ】と主張している
だけのことです。

>「条文単位でなく事案単位」ってのが理解できた?

理解できたのは「その主張は明らかな誤りである」ということです。
「事案毎に条文の持つ意味そのものが変わってしまう」というKGK氏の主張は
法の根本に反していますから。
#それは単に「疑問を差し挟む余地の無い事案も存在する」だけのこと。

===

>>>> これは、KGK氏の「「廊下を走るな」は文理解釈で妥当な解釈が可能である」
>>>> という主張への反証となっている上に、
>>> 
>>> 反証も何も、そんな主張してないでしょ?
>>> 普通は文理解釈で充分だけど、例外はあるって言ってんじゃん。
>
>> だから誤魔化すなって。^^;
>
>自分に都合が悪いことは相手が誤魔化してることにしたいのかなあ。

そのまんま、お返ししますね。^^;

>> Message-ID: <duu6uh$5cl$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>
>> http://groups.google.co.jp/group/fj.news.net-abuse/msg/db0446188b26ea59?hl=ja&
>>>> 文理解釈をする限りは、用語や修飾関係の日本語としての解釈に組込めないよ 
>>>> うな前提は無視するのが当たり前でしょう。 
>>> それでは「廊下を走るな」の適用範囲ひとつ説明できないことは既に示した通 
>>> り。 
>
>> 適用範囲というのが、例えば「その建物内の廊下に限るのかどうか」といった 
>> ことなら、文理解釈で説明できることは既に示した通り。 
>
>> 緊急避難の問題のことなら、文理解釈で押し通せない例外であることも既に示 
>> した通り。 
>> それは、自然法を根拠に、例外であることを主張できるもの。 
>> http://groups.google.co.jp/group/fj.news.net-abuse/msg/db0446188b26ea59?hl=ja&
>
>> 例外でなくても「文理解釈で説明できる」と明言していますが?
>
>「例外でなくても」って何?

>「その建物内の廊下に限るのかどうか」という点については「文理解釈で説明
>できる」と明言してますね。
>だから、そういう意味での範囲が争点となるようなケースでは、文理解釈で充
>分。

だ〜か〜ら〜、^^;
例外でない「「廊下を走るな」は文理解釈で妥当な解釈が可能である」と明確
に繰り返し主張しているでしょ。

>> #これも取り消しますか?
>
>取り消す必要のある部分は全然ないですね。

だから、誤魔化さない。^^;
KGK氏は思わず自分で「そんな主張はしていない」と言っちゃうような主張を
しているわけです。

===

>> 「普通そうだ」だって…。
>> それの何処が文理解釈やねんな。^^;
>
>普通の日本語として解釈するのが文理解釈なんだから、何の不思議もないでしょ?

KGK氏の提示した資料によれば、文理解釈とは「普通の日本語として解釈す
る」ではなく「法令文の字句や修飾関係などを解釈する手法」です。

>> 「靴と長靴」とすら異なり、「廊下」という文言からは「隣のビルの廊下だっ
>> て廊下であることに変わりは無い」としか言いようが無いわけです。
>
>それが、「張り紙に書かれている」という文脈で、「隣のビルの廊下は、この
>張り紙でいうところの廊下ではない」と言えるわけです。

馬鹿馬鹿しい。^^;
それの何処が【文脈】なんだよ。
「張り紙に書かれて廊下に貼られている」などという*状況*を解釈する【KGK
流文理解釈】はその時点で既に文理解釈とは言えないでしょう。

>> 「状況に則して」しまっては最早文理解釈とは呼べないでしょう。
>> #条文は同じでも状況が変わったら解釈も変わってしまうんだからね。
>
>語句の意味が変わるほど状況が変わったら解釈が変わるのが当然です。
>それが文理解釈でも。

そのビルだろうと隣のビルだろうと「廊下」の意味は変わりません。
「*ある*廊下に貼られている」のだから「張り紙は*その*廊下について述べて
いるのだろう」というのは条文そのものではなく「状況」から類推された解釈
であるわけです。

>ということは、「張り紙に書かれた廊下という言葉」を普通の日本語として解
>釈すれば、世界中のどの廊下も含まれるという主張ですか?
>それは、日本語の解釈として無理がありますよ。

ハイ、誤魔化さない。^^;
「日本語として」ではなく「文理解釈」ですね。
その通り、「無理がある」から「(KGK氏の言うところの)例外でない状況で
あっても文理解釈を押し付けることは不合理だ」と指摘しているわけです。


-- 
wacky