"golden cross" <popcorn05@bridge.ocn.ne.jp> wrote in message 
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> Seaside Hotel wrote:
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>> "koma" <koma-ds@k9.dion.ne.jp> wrote in message
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現証とは、実際生活の上に証拠づけられる体験
である。だいたい宗教の目的は、人間革命にあり
、宿命を打開して絶対的幸福をうることである。
したがって、その宗教で説く教えどおりに実践す
れば、そのとおりの現証が現れなくてはならない。
われわれの生活には、正しい宗教を信じて修行
に励めば功徳が現れ、反対に信心を怠ったり、
邪宗をしんじたりすれば罰が現れる。
日蓮大聖人も、現証を最も重要視された。三三
蔵祈雨事にいわく「日蓮仏法をこころみるに道理
証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証には
すぎず」と。さらに例証を一、二あげよう。
立正安国論に浄土宗を破折された時の現証論は
次のとおりである。
「慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、『唐の
武宗皇帝・会唱元年勅して章敬寺の鏡霜法師を
して諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む寺毎に
三日巡輪すること絶えず、同二年回鶻国の軍兵等
唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起こす、其の後大蕃国更た命を拒み回鶻重ねて地を
奪う、凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里の際に
起る、何に況や武宗大に仏法を破し多く寺塔を
滅す乱を撥ること能わずして遂に以て事有り』此れ
を以て之を惟うに法然は後鳥羽院の御宇・建仁年
中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れ
ば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑う
こと莫かれ汝怪しむこと莫かれ唯須く凶を捨てて
善に帰し源を塞ぎ根を截べし」
これは邪教が国家におよぼした現証論であるが、
個人を含めたものでは、弘安二年の聖人御難事
がある。
「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が
落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰
・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大
けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちな
り、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別
ばちなり、各各獅子王の心を取り出だして・いかに
人をどすともをづることなかれ」
さらに、日蓮大聖人が末法の仏であると断ずるの
も、文証としての法華経があり、その文証どおり
大商人のご生活に現れたからである。法華経の
なかに「而かも此の経は如来の現在にすら猶怨
嫉多し、況や滅度の後をや」とあるが、釈迦滅後
に、日蓮大聖人ほど法華経のために憎まれ、あ
だまれた方は一人もいない。これこそ現証である。
なお、法華経勧持品の二十行の偈「数数見擯出」
の御文も、伊東へ、佐渡へ、二度の流罪にあらわ
れた大聖人が初めて身読されたのであった。
この現証をもって、大聖人は竜の口から佐渡流罪
えお、ご自身の発迹顕本と申されるのである。
以上のように、仏法では現証を尊ぶ。
又、主観は、どちらかというと感性的ものであり
客観は理性的ものです。両者をアウフヘーベンし
たところに真の宗教はある。